2013年3月30日土曜日

ポコ太の・第1回・小ネタ☆スペシャル


今回からはじまる『小ネタスペシャル』とは
ポコ太が長年、気にはなっていたものの、
一本のエントリーにするほどには
たいして広がらないネタをまとめて公開するもの。


ただ、今回の下2つのネタのように
今後、広がっていく可能性を秘めたものもあるため、
『小ネタ』のくせに『スペシャル』と題させていただいた。









では早速いってみよう!


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はじめは軽〜く東スポ風に

(小ネタ No.01-1)
[「Get Wild」のデモタイトルは「CITY HUNTER」だった!?]



と、太文字で書いても大抵の人は
「へ〜、まぁそりゃそうでしょうね」
で終わりだろう。









ね、言ったでしょう?
  広がらないって。





それでも一応書き起こしたのは、おそらくいままで
この件が言及された事は無いだろう、ということに加え
 ↓ このカットに気がついたからだ。



























これは1987年6月
『FANKS! BANG THE GONG TOUR』が終了後、
武道館公演までの間にテレビに出まくって
「Get Wild」を演奏していたとき、一瞬写ったカット。


ソング名(上から2段目、水色の部分)を見ていただくと
「CITY HUNTER」と書いてある。






そこで気になるのが、このデータがどういう類いのものかだ。


1  レコーディングに使われたデータ
2  ツアー用のデータ
3  テレビ用に作ったいわゆる『見せデーター』


まさかTV出演で 1 を持ってくる事は無いと思うのだが、
2 や 3 だった場合は、それはそれで気になる。






『いい加減リネームしろよ!』






はい、おしまい。









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次は情報量不足で広がらないネタ

(小ネタ No.01-2)
[デビューライブ準備中に何が起こったのか?]



84年6月〜7月、東京と大阪のライブハウスで行われた
『デビューライブ』に関して
ずっと気になっていたモヤモヤを
とりあえず今の段階で一旦まとめてみる。






モヤモヤのきっかけは大きく分けて2つ


1『東京と大阪、たった2カ所のコンサートでなぜサポートメンバーが違うのか?』



普通に考えればそれだけリハーサルをしなければならないので
二度手間だろう。

たった2カ所のライブで
スケジュールをおさえられなかったってことも
なかなか考えにくいと思うんだけれど……。





2『当時『PATi・PATi』に載っていたインタビューと実際のライブの内容が違う』



ポコ太の手元にある『PATi・PATi』は84年8月号。
チェッカーズが表紙のやつだ。

インタビュー部分のみだが、
TMN終了時に出た『TMN FINAL 4001』にも転載されていたと思うので、
お手持ちの方は見ていただきたい。

お手持ちでない方はご近所のブックオフに行ってみると
大抵(悲しい位の安値で)置いてあるので是非入手しよう!





この号でTMに関する記事は見開き2ページカラーと
当時としてはなかなかの扱いだと思う。
ただしインタビューの大半は
「髪型がどうこう」といった、たわいもない内容。





しかしその中で『どストレート』な情報が数行だが含まれる。
要点を箇条書きにしてみる。



A)コンサートツアーは6月11日から。
B)リハーサルに参加しているのはメンバーに加え
  ツアーメンバー2人 + ローディー1人で計6人
C)このツアーではドラムをコンピューターでやるので打ち込み作業が大変。





まず A)に関して

相互リンクさせていただいているこちらのブログによると
実際のライブは6月18日だったとある。

単にインタビュー記事が間違えてるだけという可能性もあるが、
11日と18日でぴったり1週間ずれているというのは少し気にかかった。





B)に関して

いくらなんでもコンピュータープログラマーの小泉洋を
「ローディー」とは言わないだろうから、
このツアーメンバーの内、1人は確実に小泉洋だ。

となると、あと1人しかツアーメンバーがいないということになる。
C)のこともあわせると、どうもこれはベーシストのようだ。





C)に関して

ドラマーに送る同期用のクリックを打ち込んでいるのか?
とも考えられたが、やはり前後の文脈を考えると
ドラムそのものを打ち込んでいるようだ。

またデビュー直後、1984年5月号のPlayer誌では
今後始めるライブ展開について小室哲哉が
「僕たち3人 + コンピュータプログラマーとベーシストの5人でやっていきたい」
と語っているので、やはりドラムは打ち込みという Vision があったようだ。
(もう一人加えるならパーカッションとも語っている)









ここまでの情報で考えられるのは


もともとドラムを打ち込みですることに決まっていた。

        ↓

しかし、かなり押し迫ってからなんらかの理由
(技術的なこと、あるいは演出的なこと)で無理だと判断。
急遽、ドラムを生演奏に変更することになり、
サポートドラマーを探すことになった。

        ↓

とても間に合わずライブハウスに連絡して1週間延期してもらう。

        ↓

あまりにも急だったために、東京と大阪
両方に付き合ってもらえるドラマーを探すことが出来ず、
それぞれ別のサポートメンバーになった。




ということではないかと思うのだが、真相はいかに?


 (追記 : 2015年4月20日)
  この件は無事解決しました!
  詳細はこちらのエントリーをお読み下さい。









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さて最後は、現在ポコ太が一番もやもやとしている謎だ。

(小ネタ No.01-3)
[「1974」"PARCOライブ" ビデオの謎]



1984年12月に渋谷PARCOにて行われた
『Electric Prophet』と題されたライブ。
(今回は曲名の「Electric Prophet」と区別するため "PARCOライブ" と呼ぶ)



このライブでの「1974」は長らく商品化されていなかったが
2004年にリリースされた20周年記念BOX
 『WORLD HERITAGE DOUBLE-DECADE COMPLETE BOX』
に同梱されているDVD
『"BEE" presents TM VISION』(以下 "BEE" )にめでたく収録された。



これでいつでも "PARCOライブ" の
「1974」が楽しめると思ったのも束の間、
当時、テレビで放送されていたものと違いがあることに気付いた。




・映像がかなり違う
・ミックスが違う。




"BEE"の映像が『客が入った状態』と『客入り前の演奏』が
バランスよく編集され、またエフェクトも施されているのに比べ
当時、テレビで放送されていたものには
ほぼ『客が入った状態』の映像がそのまま粗く編集された
『撮って出し』のような状態のものがあった。
("BEE" が「映像作品」なら、こちらはライブの臨場感が伝わってくる)


"BEE" の映像と比べると9割位、違う映像だ。
2つ並べて同時再生するとほとんどマルチアングルである。





ミックスについては例えばピコピコの16分シークエンスが
"BEE" ではセンターに位置しているが
別ミックスだと左右にパンニングしている。













…… ただ、ここらへんまでは
  「まぁ、そういうこともあるだろうねぇ」
   といったところだろう。



しかしもう一つ、最大の謎がある。






・Bassのフレーズが違う







これは一体どういうことだろう?



はじめは単にミックスが違うか、
あるいは手元のVHSの音が悪いために
違って聞こえるだけかと思っていた。

しかし、このエントリーを書くにあたり
腰を据えて聴き比べたのだが、
やはりフレーズそのものが違う





今回は1987年11月、
アルバム『humansystem』発売時に放映された特番
「TM NETWORK in HUMAN SYSTEM since 1984」内で流れた「1974」と
"BEE" 収録の映像を聴き比べてみた。


例えば ↓ こんな感じ。

「1974」"BEE" ver.














「1974」〜 in HUMAN SYSTEM 〜 ver.


















これは長〜い LIVE ver.のイントロが終わり、一旦ブレイクした後
通常の CD ver.のイントロが始まるところ。


たった4小節でもこれだけ違うのだ。
特に4小節目はあからさまに違うのが分かるだろう。






ちなみにこの2つ、映像はまったく同じ。


つまり Aパターンの映像に a・b、2種類のBassパターン
さらに Bパターンの映像に aパターンのBass


という最低3種類が存在することになるのだ!!








映像に関してはともかく
Bass が違うって、いちいちつくりなおしたんだろうか?


それに何の意味があるというのか???



どなたか音質の良い「1974」映像をお持ちの方は
是非、"BEE" 収録のものと比べて検証してください。











と豪快に他人に丸投げした時点で今回はおしまい。


んじゃ、また。







2013年3月22日金曜日

「小室っぽい」ってなんだろう? その2



前回のエントリーであれほど
「八分音符の連打」をテーマにしながら
TM史上、一番有名な「八分音符の連打」を書き忘れていた。

            ↓

「Get Wild」の  ♪ ジャンジャンジャンジャン


 …… 伝わりますよね、コレで(笑)










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さて今回のテーマは
前回の『〜肉体性〜 編』と対をなす形で御送りする

[ポコ太の考える『小室哲哉の本質』〜精神性〜 編]




本来、この重箱ブログでは、
音楽面を主に据えているので
精神論は避けるべきと考えている。


しかしやはり「これだけは触れておかないと片手落ちになる」
と思う部分があるので
今回のみ、あえて精神論に踏み込む。








はじめに前回載せた譜面をもういちど見ておこう。




















この曲は渡辺美里の「Teenage Walk」である。



1986年「My Revolution」の大ヒットを受けて出された
作曲:小室哲哉 + 編曲:大村雅朗コンビの第二弾シングルであり、
ポコ太に『作曲家』としての小室哲哉を強烈に印象づけた曲だ。







ポコ太が初めてこの曲を聞いたのはラジオだったのだが、
譜面の部分に差しかかった時、ドキッとして
思わず体が固まったのをはっきりと憶えている。


『放送事故か?!』



なさけないが、これが最初の印象だった。



もちろんすぐに「そういうメロディーの曲」なんだと気付くのだが、
実はこれと同じように


・「金曜日のライオン」の大サビに入った瞬間
・「Maria Club」2番直前の4小節だけKeyが変わる箇所
・「BEYOND THE TIME」のBメロに入った瞬間
・「LOVE TRAIN」のサビに入った瞬間


 〜 などなどなど


小室哲哉作品を最初に聞いた時に
ドキッとさせられた記憶はいくつもある。






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「Teenage Walk」の話に戻ろう。



小室哲哉は当時のインタビューで
この曲の制作にあたり「相当なプレッシャー」があったと語っていたが、
そんなことは インタビューを読むまでもない だろう。



 ラストチャンスと全力で挑んだ
 自分達のユニットは鳴かず飛ばずで
「世間が自分達と違うところで動いている」と感じていた中、
 初めて掴んだ『ヒット曲』である。


「その次」に集まる注目(リスナーはもちろん業界内の)と
 それから来るプレッシャーは想像を絶するものだったろう。


 それは純粋に良いメロディを書くことに集中できた
「My Revolution」の時とは
 まるで違ったであろうことは容易に想像がつく。




以下の文章は『この状況』の中での作曲作業であった
ということを頭において、読んでいただきたい。






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この曲はイントロが無く、いきなりサビから始まる。
Keyは[G]
この後の曲中で、このKeyは2度と出てこない。


もう一度言う。
このKeyは2度と出てこない。





頭のサビが終わった後、
半音下にKeyを移し1番のAメロが始まる。


順調にBメロ→サビと進むが
サビが終わった後、再び半音下にKeyを移し
「そのまま」2番のAメロが始まる。




つまり1番と2番のAメロでKeyが違う!

(この傾向は後年拍車がかかり「一途な恋」では
 1番と2番がまるごとKeyが違うということをやってのけている)





そして2番のAメロの途中で辻褄を合わせるように
何の予告も無く半音上にKeyを戻す。





その後のBメロでは1番のBメロと小節数が違う。
ここで出てくるのが先程の譜面の部分である。


今度は歌詞付きのものを御覧いただこう。


















この『八分音符の連打によるたたみかけ』によって高まった緊張感
その後のサビによって見事に解決される


この開放感は1番のサビとは比べ物にならない。









以上あげた、この曲の特徴は
小室哲哉作品が蔓延した80年代後半〜90年代を経過した今では
『当り前』となった手法だ。



しかし86年当時、10代の女の子が歌うPOPSとしては

あえて言うが
「支離滅裂」にさえ思えるメロディー構成 だった。

(歌詞や編曲を忘れて、純粋にメロディー展開だけを頭に思い浮かべてほしい)








もうひとつ注目すべきは編曲だ。

正直「My Revolution」のヒットは
『大村雅朗作品』としての側面も大きい。


しかし「My Revolution」では装飾的だった大村雅朗による編曲が
この曲では小室哲哉の『イビツさ』を隠そうとせず、
そのまま後押ししている




これは「My Revolution」のヒットにより、
スタッフ一同に、小室哲哉の『イビツさ』が
十分リスナーに受け入れられると確信させたためだろう。
スタッフにとっても大きな賭けではなかっただろうか。







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さてここで、もういちど
当時の小室哲哉が置かれた状況を思い起こしてみてほしい。




あなたが作曲家だとして、
この「絶対失敗出来ない」状況の中で、
当時の常識からすると、とてもプロの作品とは思えない
『イビツ』なものを提出出来るだろうか?



また、あなたがディレクターやプロデューサーだったとして、
まだネームバリューも無い作曲家が提出してきたものが
先程の『一見、やけくそにさえ思える譜面』の様なものだったとして
OKを出せるだろうか?




彼らは『変化球をねらった』のだろうか?





そうではないことは
このブログを読んでくださっている方々なら御存知だろう。







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これは『(常軌を逸した)転調』にも言えることだが
『小室哲哉』を世に送り出した精神とは、



当時の常識から考えて、とてもプロの作品とは思えない
『イビツ』なものを恥じらうこと無く
「それでもこれが良い!」と思える本人の感性説得力

           +

その感性を信じ「これを世に出そう」と思えた
小坂洋二、他の若い感性のスタッフ


の結晶。



であって、これはいくら楽典を勉強しようが、
彼の曲を分析しようが、どうなるものでも無い。


あえていえば、前回冒頭でポコ太が指摘したように、
『丸呑み』するしかないだろう。







今回は小室哲哉にフォーカスしているが、
もちろん渡辺美里にとっても重要な局面だったはずで、
もし「TM NETWORK」と「渡辺美里」のプロデューサーが
同じ小坂洋二でなかったら、
この曲がそのまま採用されていたかも疑問だ。

(実際、もし売れなかったら「こんな無茶苦茶な曲」と冷笑されていただろう。
 そして、その後のTM NETWORKの方向性にも影響が出ていたと思われる)






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もちろん単なる「無茶苦茶」であれば
何回聞き直しても「無茶苦茶」だ。



小室哲哉作品の凄みは
一度目には「無茶苦茶」に聞こえたものが
二度目からは「味」に聞こえ、
三度目には「かっこよさ」に変わるところだ。


そして最初「無茶苦茶」に聞こえたのは
自分自身の「音楽とはこういうものだ」という
凝り固まった概念が原因だったと気付かされるのだ。




そういう意味で小室哲哉本人も凄いが、

当時のスタッフ達の眼識には敬意を表したい。

(TM NETWORK が『Epic/Sony』の所属で本当に良かった。
 まさに「Epic/Sony Yeah!(by 大江千里)」だ)






かつて、PSY・S の松浦雅也が

「プロって経験を重ねるほど無意識に
(日曜大工でいえば)上からニスを塗ったり、
 継ぎ目を目立たないように処理したりしちゃう。 
 自分はそういうものに魅力を感じない」と述べていた。




やはり創作活動とは多かれ少なかれ
自分自信の『イビツさ』を晒すものである。
『イビツさ』を晒すことは恥ずかしいことであるが
『イビツさ』の無いものに人は魅力を感じない




今回のエントリー、
実はポコ太自身に対する戒めとして書きおこした。










では最後に「Teenage Walk」を聞いて
今回のエントリーを終わるとしよう。


んじゃ、また。







【関連エントリー】


「小室っぽい」ってなんだろう? その1







2013年3月13日水曜日

「小室っぽい」ってなんだろう? その1


個人的な話で恐縮だが
その昔、ポコ太が初めて「曲を作ろう!」
と思った時から決めていたことがある。


「細野晴臣」と「小室哲哉」のような曲は作らない。



何故かというとこの御両名、あまりにもアクが強く
「ちょっとエッセンスをいただく」
というようなことが出来ないのだ。


結果「毒を食らわば皿まで」と『丸呑み』するしかない


例えばどう頑張って作っても、少し「小室風のリフ」が聞こえただけで
他人からは「パクリ」に聞こえるのだ。
(悔しい様な嬉しい様な微妙な気持ちになった方、いるでしょう?)








では「小室哲哉らしさ」とは何だろう?
「TMっぽい」「小室っぽい」当時よく聞かれた言葉である。


サウンドだけに絞っても

・打ち込みによるシークエンス
・(常軌を逸した)転調
・付点八分音符の多用
・歌が早口言葉(十六分音符の連続)
・キャッチーなリフ
・イントロが長い

などなど




他の邦楽アーティストの「〜っぽい」というのが
歌詞やボーカルの歌い方、パフォーマンスを指していた時代に、
これほどサウンドやメロディーに
「〜っぽい」と言われた存在は希有では無いだろうか。



当時よく、ユニコーンの「PTA~光のネットワーク」に対し
「バカにされた」と憤慨しているファンがいたが、
ポコ太はむしろ誇るべきだと思っていた。

だって他のアーティストをネタにして、
こんな「サウンド」のパロディーが成立する?







話を本筋にもどす。


80年代後半 〜 90年代、小室哲哉がメジャーになるにつれ
このような『形』をなぞった数多のフォロワーから
パクリ、パロディーまで、次々と生まれてきた。


しかしポコ太、それらにはまったく反応しなかった。
ポコ太にとって『一番大事な部分』が欠けていたからだ。







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というわけでお待たせしました。
今回のテーマは

[ポコ太の考える『小室哲哉の本質』〜肉体性〜 編]







たしかに上にあげた特徴には重要な点もある。
このうち


『(常軌を逸した)転調』はいずれ別に取り上げるつもりだ。


また、バッキングやメロディーに見える『十六分音符の連続』に関しては
よく言われるように、キース・エマーソンの影響(というより物真似)
と思われるので、ここでは特にふれない。



たとえばこの動画の 0:14〜 を聞けば「そのまんま」のバッキングが聞ける。



(余談だが RHYTHM RED TOUR の衣装って ↓ コレが元ネタでは?)













ではポコ太はどこに小室哲哉ならではのものを感じるのか?


小室哲哉というと「洒落た付点八分音符」や
「華やかな十六分音符」の印象が強いと思うが
ポコ太にとって重要なポイントは


[野太い(骨太な)八分音符の連打によるたたみかけ]






まずこの譜面を見てほしい。















3小節に渡り、ただただ八分音符の連続である。
実はこの曲、TM名義の曲では無いのだが、
そのメロディーの特異さを伝えるため、
あえて曲名も歌詞も書かなかった。


この曲については次回の [〜精神性〜 編] で採りあげるが
ポコ太の考える『小室哲哉の本質』がよく現われている為、
先に譜面だけ見てもらった。






もちろんこれはTM曲のメロディーにも顕著で

・「Kiss You」のサビ前  ♪carry on your dream
・「WILD HEAVEN」のサビ  ♪運命が揺さぶる ♪すれちがわないで
・「I am」の展開が変わる直前  ♪人が生きるため ♪イメージしたなら
・ 小室ソロ「SHOUT」のサビ  ♪ シグナルを睨んでる

などなど枚挙にいとまが無い。
全てを上げるのは不可能なので、後はみなさん各自で探していただきたい。






またこれの応用で、
『独立した二つのフレーズの間を八分音符の連打によって強引に繋いでしまう
というのもよく出てくる。 たとえばこんな感じ ↓


小室ソロ「RUNNING TO HORIZON」






















さて、この話はつまるところ、彼のリズム観(感ではなく観)の話なので
打ち込みのドラムにも曲調にかかわらず顔を出す。


たとえば

・「Your Song」の 0:39〜 のサンプリングボイスや全編にわたるスネアのFill
・「DIVE INTO YOUR BODY」4:08〜 のシンセタム
・「一途な恋」では 2:01〜 ドラムが八分音符の連打をはじめ、
     さらに 2:03〜 はオーケストラヒットまで重なってくる。
・ また、最新シングルの「I am」でも、1:57〜 のスネア、
     2:31〜 や 3:46〜のタムなど、随所で聞く事が出来る。



特に、歌に入る直前だったり、最後の一盛り上がり直前など
「ココゾ」という場所に入ることが多い。


ただ、レコーディングでは修正したり音を付け加えたりすることによって
『着飾る』ことが出来るため、特にドラムはこれでも自重しているほうだと思う。









しかしライブでの生演奏となると、そうはいかない。
ファンの方なら ↓ この動画の 5:02〜 こういうノリ、見覚えがあるだろう。



まるでダダをこねる子供のようだが、彼は演奏中盛り上がってくるとよくこの
「首をカックンカックンさせながら八分音符で体を大きく縦揺れさせる」ノリを見せる。










このノリはどこから来たのだろう?



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『八分音符のたたみかけ』
 ポコ太の見立てではこれは

小室哲哉の原体験である - 60年代終わり〜70年代、
まだジャンルが細分化されていく前 
『骨太なロック』の表出 だと思われる。







実はポコ太のTMに対する最初期の認識は
『ファンタジック+骨太』だった。


これが極まった曲が「YOUR SONG」だろう。
全体としてはファンタジックな第1期TMサウンドの集大成。

しかし、リズム隊だけを聞けば
「ロック」を通り越し、ほとんど「ヘビメタ」だ。
さらにAメロではド派手なBassが左右にパンニングまでしている。


当時『ファンタジック』と『骨太』を
これほどPOPに両立させているバンドは非常にめずらしかった。






しかし、当時の日本の風潮では
『ファンタジック=線が細い=女の子向け』であり
ビジュアル戦略(木根ちゃん…涙)を抜きにしても
初期のファン構成が女性中心だったのも頷ける。

彼らが『SF』ではなく『ファンタジー』と
言い続けていたところからすると
それは意図的なプロモーション戦略だったのかもしれない。



  (正直に言ってポコ太は、男性友達の中で
   「俺、TM NETWORKのファンなんだ」と言いづらかった。
    個人的な体感では「Come On Let's Dance」の頃から
    男性ファンも声をあげはじめた様に思う。
    しかもその曲調よりPVのイメージ効果が凄かった) 






このブログの『はじめての方へ』と題した文章で

  ポコ太にとって『TM NETWORK』とは
  1)プログレバンドである。
  2)ライブバンドである。
  3)男声コーラスグループである。

と宣言した。


これは別の言い方をすると
小室哲哉にとって「打ち込み」は本質では無い
ということだ。
(この件に関しては、またいずれ新たなエントリーを建てます)


ミュージシャンとしての小室哲哉は
パブリックなイメージよりも
はるかに古くさい昔気質の存在なのだ。





今回採りあげた『骨太なロック』の原体験
これは新人デビューとしては高齢だったからこそのバックボーンだ。



そしてこのバックボーンの有無こそ
「シンセ」や「打ち込み」を入口として入ってきたフォロワー達(注)や、
表面をなぞったパクリ曲にポコ太が反応しなかった理由なのだ。

(最初期DTM世代といえる浅倉大介が RHYTHM RED TOUR に参加する際
 「ディストーションギターの音に馴染みが無い」と言っていたのが印象的)










(注)もっともは近年はシンセや打ち込みをフィーチャーしたジャンルの方が
  『骨太』な音やリズムを好む傾向があるので、
   最近はこの状況も変わりつつあるのかもしれない。





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さて次回は
[ポコ太の考える『小室哲哉の本質』〜精神性〜 編]

こちらでも唯一無二の
『小室哲哉』を探る予定なのでお楽しみに。





んじゃ、また。








2013年3月5日火曜日

この人を讃えよ 〜 白田朗編 〜


ポコ太はかねてより不思議だった。
ネット上にあるTM NETWORKの情報には妙な「空白地帯」があることに。



特にデビュー前〜ブレイク前夜まで多大な貢献をしている
『小泉洋』と『白田朗』両氏に対する情報がほとんどないのである。
この記事を書くにあたりWikipediaも見てみたが
なんと2人ともページは存在しなかった


またTM NETWORKのページを見ても
白田朗が「Dragon The Festival Tour からの参加」になっていたり
(実際はフレッシュサウンズコンテストも参加している)
いまひとつ信頼性も低い。




そこで今回は少しでも再評価につながる事を願って
いつものような『ポコ太の妄想垂れ流し記事』ではなく

[白田朗の語ったTMのエピソード] をお送りする。

当然、デビュー前からゴリラあたりまでの話が中心だが、
なかなか有意義な情報や面白い話が多いのだ。




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まずネタ元だが90年代前半、まだギリギリ『TMN』として活動していた頃の
「キーボードスペシャル」と言う月刊雑誌。
この頃、白田朗がライターの1人として参加しており、
たまにTMの思い出話を書いていた。


…… つまりレアな話でもなんでもない、誰でも見れる情報だった。
なんで今まで誰も書かなかったんだ???



そこでポコ太はこの「空白地帯」を少しでも埋めるべく、メビウスの宇宙を越えて
いまここに、このエントリーを書き起こすことを決意した!
(んな大した話じゃない)





ただし残念ながらポコ太は「キーボードマガジン派」だったため
「~スペシャル」は立ち○みですませていた。
そのため記憶が曖昧な部分も多く、ネット上を混乱させては元も子もないので
はっきりとした記憶だけを書いていくことにします。
(なお、文中の斜体文字部分はポコ太自身のコメントです。あしからず)









では年代順に

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1980年代初頭


・この頃、白田朗と小室哲哉は
 それぞれライブハウスを中心に活動しており知り合う。


・この当時の小室哲哉はスタジオではRolandのJUPITER-8
 ライブではパールのポリシンセ(機種名は失念。ゴメン)をメインにしていた。


・2人は別々のバンドで同じステージに立ついわゆる「対バン」をしたこともあったそうだ。





1983年


・その縁で最初に作られた「1974」のデモテープだけでなく
 打ち込みの為に書かれた譜面も貰らったそうだ。

・テープは24chマルチで録られ、譜面もかなり細かく書かれていた。

・打ち込みは小泉洋。



・その後いよいよフレッシュサウンズコンテスト東京地区決勝にあたり
 小室哲哉から電話でサポートの依頼が来る。





1984年 〜 『TM NETWORK デビュー』 〜


・6月の渋谷Live inn に白田朗が観客として訪れた際のエピソード。

 リハーサルを終え、全員楽屋に戻り本番に備えていた時、
 誰かがドライヤーを使った途端に電気がすべて落ちてしまい、
 みんな真っ青という事態がおこった。

・結局、演奏データや楽器の音色は飛ばず、無事ライブをスタート出来た。





1985年


『Dragon The Festival Tour』
 再び小室哲哉から電話でサポートの依頼が来る。



・ゲネプロ(最終通しリハ)の時に初めて「ムービング・トラス」を見た出演者一同は
 演奏中にも関わらず、それが動くたび上を見あげていた。


(画面上、円形にセットされた照明を支える骨組みが油圧可動式の「ムービング・トラス」
 当時日本に4台しか無いシステムを、このツアーの為全てTMがおさえた)




(なお、狭い会場の公演では、この「ムービング・トラス」を
 所定の位置まで上げる事が出来ず、ただでさえ熱い舞台上がさらに熱かった模様。
 写真は広島公演。去り際のメンバーが屈んで下をくぐっている)





・名古屋公演では宇都宮のマイクスタンドがすっぽ抜け小泉洋を直撃した。



・ドラムの山田亘が曲順を間違えたり、
 同期用に付けているヘッドフォンを落としてしまったりすることがあった。
 (公演場所は失念しました。ゴメン)




・毎回、コンサートの最後に打ち上げられる金色の紙屑を
 メンバーたちは「金色の夢」と呼んでいた


・その「金色の夢」が落ちてくるときにシンセの中に入り込んでしまい
 接触不良を起こしそうになるので大変だった。


・対策として一番上のキーボードにビニールをセットし
「金色の夢」が落ちてくる瞬間に手でビニールをかぶせていた。


・それでも後々シンセのフタを開けると「金色の夢」が出てきた。


(これが「金色の夢」想像以上に大量に降っている。
 この時点ですでに小室哲哉は演奏を終了して舞台を去ろうとしているが
 サポートメンバーの演奏は続いている)




・ミニアルバム「TWINKLE NIGHT」のレコーディング中にスタジオ尋ねたところ
 彼の目の前で小室哲哉は「ELECTRIC PROPHET」のBassを
 ワンテイクで弾いてしまった!





1986年 〜


『FANKS DYNA-MIX Tour』


・ツアー開始前、使用するフレーズをサンプリングするため
 小室哲哉、白田朗、久保こーじの3人で何日も徹夜した。



・名古屋公演で「8月の長い夜」から始まる3人コーナーと
 小室哲哉のシンセソロコーナーの間、楽屋に帰っていた西村麻聡が
 後半1曲めの「雨に誓って」のイントロに間に合わなかった!

・理由は舞台から二階下にあった楽屋から戻って来る際、
 エレベーターに乗り遅れたためらしい。



・大阪公演では白田朗の『普段靴』を間違って宇都宮が履いて
 ステージに出て行ってしまった。
 ちなみに2人の靴のサイズは全然違って白田朗の方が小さかった。

・そのことに宇都宮は全然気付いていなかった。





『FANKS "FANTASY" DYNA-MIX』


・リハーサル時、白田朗は渡辺美里のツアーのリハも重なったうえに、
 新曲やリ・アレンジの曲が多く、かなり大変だった。



・「FAIRE LA VISE」の大胆なライブアレンジの理由は
 野外だと曲順的にまだ明るい可能性があるため照明の凝った演出が使えず、
 音だけで勝負しなくてはならないというのが一因。


(映像を見ると本番ではすでに真っ暗ですね。
 この直後のMCで宇都宮が「もう暗くなっちったわ」というのが印象的)






・この年12月の渡辺美里らとのジョイントライブを最後に白田朗はサポートを降りる。
 ただ、その後も『kiss Japan tour』の頃までは客として見に行っていたそう。



・その後、別のツアーで地方に出ていた白田朗に、知ってか知らずか
 顔見知りの地方イベンターが『CAROL Tour』について愚痴っていたらしい。
 やはりメンバーやスタッフだけでなく地方イベンターにも
 かなり負担のかかるツアーだったようだ。







以上

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サポートメンバーだからこその興味深いエピソードの数々、いかがだったろうか。



ポコ太としては『FANKS "FANTASY" DYNA-MIX』における
「FAIRE LA VISE」のエピソードに、思わず「なるほど」とうなずいてしまった。

(←だったら本買っとけよ!ポコポ〜ン!!!)

当時、ビデオに他の曲を差し置いて収録されたのには
嬉しさとともにかなり驚いたが、こういう理由だったんですね。



今回はとにかくポコ太の記憶の内、確実と思えるものだけ記述した。
他にも様々なエピソードが眠っているに違いない。


今回のエントリーを皮切りにネット上で『小泉洋』と『白田朗』
両氏に対する再評価や、新たな情報の掘り起こしが始まることを願ってやまない。





今回は真面目なポコ太でした。
んじゃ、また。