2015年6月26日金曜日

【番外】TM NETWORK とはなにか? 〜 その3


この記事は前回からの続きとなります。
まず、こちらからお読みください。

・【番外】TM NETWORK とはなにか? 〜 その1
・【番外】TM NETWORK とはなにか? 〜 その2




   (今回分)

  5:隙間風
  6:TM NETWORK とはなにか?
  7:CHILDHOOD'S END
   『補足説明』
     おわりに







5:隙間風


しかし85年4月、3rd single「アクシデント」を翌月に控えリリースされた別の楽曲が、
新たな展開を呼びます。

この頃、小泉氏はようやく
ムーンライダーズ・オフィスという事務所に所属することになりました。
それまでは C-Dragon Project の項でふれたように、小室ー小泉の二人体制で
(日銭を稼ぐ)外部仕事にあたっていたわけですが、これによって小室氏とは別に
小泉氏単独の仕事が増えていくことになります。



その、ほぼ最初の仕事がこの曲でした。




            LOOK 「シャイニン・オン 君が哀しい」




ご存知のとおりこの曲は大ヒットとなり、1985年を代表する曲となります。
同時期発売だった TM NETWORK の「アクシデント」は見る影もありません。

この大ヒットとそれに連なるスタジオ仕事によって、
小泉氏は背負っていた巨額の借金を一気に返済。
さらに憧れだったフェラーリを購入します。





ところがこの ”成功” が、小室氏との間に溝を作ることになります。

「一度哲っちゃん家の前を車で通ったら、ちょうど家の前に止まってた車に
 木根と2人で乗ってるのが見えたからさ、止まって声かけたら無視されたの憶えてるよ。
 そのまま黙って車走らせちゃってさ」




この辺から少しずつ、小室氏は小泉氏を外すことを考え始めるようです。

この部分は極私的な要素を孕むので、深読みは避けるべきかと思いますが、
ここであえて小室氏側の視点に立つなら、
少なくとも若い頃の小室氏はTMのイメージとは間逆の、昔のバンドマンにありがちな、
(狭い範囲での)仲間意識を抱えたタイプだったのだと思います。

そもそも『T.M.ネットワーク』という名前自体が、
見方によっては非常に青臭いネーミングだと言えるでしょう。

初期2枚のアルバムに関わったサポートミュージシャンの顔ぶれを見ると、
このアマチュア臭い仲間意識が、プロとしてのレコーディングを要求する小坂氏との間に
溝を生んでいたフシもあります。

そんな小室氏には、なかなか芽が出ないながらもガムシャラに突き進んでいた
1984年末の時点では、『この4人の仲間で成功を掴み取るんだ』
という思いがあったに違いありません。
ライブのオープニング曲に「Quatro」などというタイトルを付けたのも、それゆえでしょう。




しかし小室氏と関わりのない単独の仕事によって、小泉氏一人が成功をつかんでしまった。

自分としては言いがかりにしか思えませんが、
これは小室氏から見れば、裏切りに等しかったのだと思われます。










        つまり小泉氏の離脱と音楽性とは何の関係もありません。









ただ小泉氏が仰るには、最後の最後まで、
メンバーとの間に決定的な何かがあったわけでは無い、とのこと。
インタビュー時も常に「キネもウツも気のいい奴だからさ〜」と仰っていました。



ここは今一度ファンの方々に認識していただきたいのですが、
この時点の TM NETWORK とは ー
 ・売れていない
 ・お金にならない
 ・さらに言えば翌年で契約終了 → 解散となってもおかしくなかったグループ
なのです。

逆に言えば、お金の心配がなくなった小泉氏が
それでも TM NETWORK にこだわっていたのは、
ただ、純粋に『仲間たちと良い音楽を作りたい』という想いだったことの
証明と言えるのではないでしょうか?

最後の半年間、小泉氏が手を抜くどころかますます力を入れていたことは
当インタビューをお読みの通りです。




しかし事務所という強力な後ろ盾があったスピード・ウェイ組に対し、
TM内にそれを持たなかった小泉氏にとって、
小室氏との間に吹いた隙間風は、流れを決定的にしていきます。

「この件に関して、一切話し合いはもたれなかったのですか?」
「もうそこは阿吽の呼吸だろうね。察するというか
 "あ、次(3rd album)は俺を呼ぶ気がないのね” って感じで」





このような局面においても TM側の事務所との軋轢は続いており、
小泉氏にとっても、気持ちが離れていく大きな要因となっていきます。


小泉氏にとっては TM NETWORK のために巨額の借金を抱えてまで打ち込んできたものの、
TM NETWORK からはそれに見合うリターン(収入)は無く、
背負った借金を返すためには他の仕事をアテにするしかない。
極々、当たり前のことでしかなかったのです。


また、そもそも小泉氏の存在が大きくなったのも、
『パソコン+MIDIを駆使した打ち込みサウンド』という路線を小室氏が選択した時点で
如何ともしがたいことでした。







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6:TM NETWORK とはなにか?


実際このパソコン+MIDIの路線では、木根氏、宇都宮氏が培ってきた
スピード・ウェイでの資産を活かすことは出来ません。
ただ出来上がるのをひたすら待つだけです。

宇都宮氏は、のちにこの状況を
「ただボーっと待っているのもなんだから、何かやってみようと思ってダンスを習い始めた」
と言っています。
(実際に花開いたのは 1986年のツアーからだが、
 最初にダンス教室に通い始めたのは1985年「Dragon The Festival tour」の前)



また木根氏も1985年中頃、小室氏がダンスミュージックを視野に入れはじめた頃に、
「俺たちはこの路線でいいんだろうか?とウツと2人で話した」と語っています。

結局、とにかくやれるだけやってみようという話になり
木根氏はレコーディングではバラードに特化し、ライブではパントマイムや竹馬など、
本来、音楽とは関係のない事に居場所を見出していきます。


意外ですが発表されている作品の中で、木根氏が TM NETWORK 用に
バラードを書き下ろしたのは 3rd album「GORILLA」が最初です。

  ・「1/2の助走」→ 木根氏の作曲した時点ではアップテンポのポップスだった。
  ・「愛をそのままに」→ スピード・ウェイ「Midnight Town」のリメイク
  ・「Timemachine」→ 未発表

またライブにおけるパフォーマンスも、ファンの間では伝説のような扱いになっていますが、
当時、BOØWYなど "正統派" バンドのファンからは、
「TMってギターがパントマイムやったり空を飛んだりするんでしょwww」
と色物扱いされる要因にもなっていました。(注)

木根氏自身も決して乗り気でやっていたわけでなく、
ある時期までこのポジションに葛藤があったといいます。

     (注)80年代中期、ロックが商業的隆盛を迎える中、
        花形であるギタリストがギターを弾けないというのは、
        "ロックバンド" としては致命的だった。





こう見ると、小泉氏が TM に加わり、そして離れるに至った理由も、
宇都宮氏の歌唱スタイルやダンス、木根氏のキネバラ路線やパフォーマンスも
全て TM NETWORK が生まれながらに内包していた矛盾。




       "メンバーのバックボーンとは違う売り出し方を、
       (デビュー直前になって)メンバー自身が選んでしまった”




というところから発していると言えるでしょう。

企画物ならともかく、パーマネントなグループでこのような成立ちというのは、
あまり聞いたことがありません。
(事務所やレコード会社に無理矢理押しつけられたのなら分かりますが…)



この矛盾はインタビューでも語っていただいた小泉氏と小室氏の意気投合や、
1983年中頃というタイミングから一気に表面化したものですが、
自分としては、元々グループ結成時から既に生まれていた問題ではないかと考えます。
                             (補足の項・参照)

だからこそ小泉氏が去った後も、矛盾自体は残り続けたわけです。

結果的にその矛盾の中で各メンバーが居場所を確保するため、もがき続けること自体が、
他のバンドやユニットには見られない " TM NETWORK のアイデンティティー "
を産み出していったのではないでしょうか。







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7:CHILDHOOD'S END


小泉氏の離脱。
TM NETWORK の抱えた矛盾については以上です。
最後に小泉氏の離脱直後の1986年について。



1986年 3rd album「GORILLA」からのTMの活動は路線変更というより、
実質再デビューだったと言えるでしょう。

これは音楽性の話ではなく、レコーディングはレコード会社の、
アーティスト活動は所属事務所がひいたレールの上を、行儀よく進んで行く
『大人のバンド』になったという意味です。



小泉氏に象徴されるゴタゴタも含め、これは本来なら
デビュー時に整理されているべき問題です。

それが2年間も放置されてしまったのは、
小室氏がデビュー以前に中途半端にキャリアを積んでいたことも一因ではないかと考えます。
ヘタに我流でやってこれたために、セミプロなりの自信・プライドが育ち、
それが小坂氏の意見に素直に耳を貸さないようになっていたのではないでしょうか。



デビュー当初の小室氏を指して小坂氏は
「ライブはやらない、TVは出ない、と大きな口をきく」と苦笑していたのが
「GORILLA」の頃になって「やっと小室が俺の言うことに耳を貸すようになった」
と語っていました。

逆に小室氏からすると、デビュー当初から
「Produce by TETSUYA KOMURO にはこだわりたい」と言っていたものの、
自分の舵取りではなかなか結果が出せず、結局百戦錬磨の小坂氏に頭を押さえ付けられている
と感じていたのではないでしょうか。(親の心、子知らずではありますが)

2nd album 制作時に小坂氏が顔を出さなかった理由を、小室氏はこの30年近く
「渡辺美里のレコーディングにかかりきりだったから」と述べてきましたが、
これまた例の「TMぴあ」では「小坂さんがヘソを曲げて来なくなっちゃった」
とサラリと語っています。
ここでもレコーディングの進め方、サポートミュージシャンの選定などで
意見の相違があったとみられます。



しかし、その 2nd album は全く売れず
結果、アルバムタイトルやジャケットデザインの決定権も取り上げられてしまった。

この「GORILLA」というタイトル&ジャケットは、
小坂氏の "親父の一喝” だったと言えるでしょう。




































評判は悪いですが、このタイトル及びジャケットは
非常に重要な役割を果たした、と自分は感じています。

なによりそのインパクトによって、
『いままでのTMのイメージを吹き飛ばしてしまう = 一旦無かったことにしてしまう』
ことに見事、成功したからです。

つまりこれは小室氏の抱えていた、アマチュアリズムの敗北とも言えるでしょう。
そう考えるとこの事態を意図せず名付けたはずの 2nd album「CHILDHOOD'S END」とは
なんと皮肉なタイトルでしょうか。

(このように捉えると90年代、このジャケットを回収したいと語った小室氏の発言は、
 単にデザインに起因するものではない、という見方もできます)







さて小泉氏が抜け『大人の TM NETWORK 』になって以降も、
急に順風満帆になったわけではありません。

新しく『FANKS』という造語を掲げリリースしたシングル「Come On Let's Dance」が、
ブレイクへの狼煙を上げた様なイメージ持たれている方もいらっしゃいますが、
これは後から俯瞰してみた場合の話です。


実際のところは、以前よりはかなり売り上げを上げたものの、
乾坤一擲のわりにはメンバーやレコード会社が期待したほどではなく、当時のファンの間でも
「このままでは TM NETWORK はマズイのでは」という不穏な空気が流れたことは、
木根氏の著書にも書かれています。


この翌年、ブレイクしたからこそ肯定的に受け入れられている『FANKS』路線ですが、
もしそうならなければ、恥も外聞もなく売れるためにプライドをかなぐり捨てたと
世間にとられ、物笑いの種になっていたでしょう。

この時期の雰囲気は、平山雄一氏による小室氏インタビュー中、平山氏の漏らした
「FANKS という言葉を聞いた時(今更)よくやるよと思った」
という言葉が端的に現していると思います。


本人達も、一息つけたのは翌年の「Self Control」「Get Wild」と語っているように、
1986年はまだ薄氷をふむ状態であり、これを救って 4th album の制作に漕ぎ着けたのは、
なによりも小室氏の作曲した、渡辺美里「My Revolution」(1986年1月発売)の
大ヒットによるものでしょう。

小室氏も「TMぴあ」で「My Revolution の大ヒットに対するレコード会社からのご褒美」
といったニュアンスで 4th album が制作出来たことを語っています。


つまり「My Revolution」は TM NETWORK にとっても超重要曲となるわけです。


この「My Revolution」によって延命された時期があるからこそ、
本当のラストチャンスである、シングル「Self Control」への並々ならぬ意気込みが
理解できるのですが、これについては本題から外れるのでここまでにしておきます。

ただ一点、このシングル「Self Control」は間違いなくFANKS期の代表曲ではありますが、
当時の(3rd album で示した)『FANKS』という枠に入る曲調では無い。
むしろリズムは8ビートの歌謡ロックだ、ということは指摘しておきます。






以上の流れからも、小泉氏の離脱とブレイクに、
相関関係は無いことがお分かりいただけたでしょうか。

"ブレイク" という意味では1987年になるし、
"FANKS" という意味では、すでに 12inch Single「Dragon the Festival (Zoo Mix)」
(1985年7月発売)にその胎動を感じます。

さらにB面に収録された「1974 (Children's Live MIX)」に目を向ければ、
1984年12月のパルコライブの時点で一部に、
無自覚ながらもFANKSが混じっていたともいえます。

小泉氏の離脱直後の1986年も、TMは危機を脱したわけではない。

4th album「Self Control」のコンセプトが「GORILLA」+「RAINBOW RAINBOW」
だったというのは、ひょっとするとラストアルバムになりかねない状況の中での
総力戦を表現していると、捉えることができましょう。





                        本文ここまで。









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   『補足説明』


今回は小泉氏の件がメインのため「TM NETWORKの独自性」については、
デビュー直前の話が中心となり、
重要と思われるグループ結成の経緯については、ふれませんでした。

しかし本文完成後、読み返してみると
やはりそこに関しても自分なりの考えを説明しておかないと、
片手落ちになると思い、新たに補足説明の項を立てることにしました。





デビュー直前、小泉氏と小室氏はどのような意見交換をしたのか?
小室氏が当初描いた「T.M.ネットワーク」とはどんな内容だったのか?
木根氏・宇都宮氏はどこまで先のイメージが見えていたのか?

これは TM NETWORK~TMN に至る最初の10年間の活動に影響を与えた
かなり重要な要素であると考えます。



まずここははっきりさせておかないとこの先、話が通じないと思うのですが
自分にとって TM NETWORK の魅力とは『変なバンド』という点です。
『かっこいいバンド』ではありません。
単にかっこいいだけのバンドなら、世界中に掃いて捨てるほどいます。




       では、何をもって『変なバンド』と言うのか?



端的に言えば
『なんでこのメンバー構成で、こんなサウンドの音楽をやっているんだろう?』
ということです。
これは実は、ファン以外の人の方が直感的に感じていると思います。

木根氏については分かりやすいでしょう。
『あのサングラスの人は何のためにいるの?』と聞かれ、
困ってしまった経験は、ファンなら誰しもあるはずです。

しかし自分は、これは木根氏だけの話ではないとずっと感じてきました
宇都宮氏はもちろん、時には言い出しっぺのリーダー・小室氏にすら
違和感を感じる時があったのです。




その『変』の根源になっているのが「T.M.ネットワーク」結成の経緯だと思うのですが、
自分にはその点が未だにぼやけて見えています。





TM結成時のいきさつについては
木根氏の著書「電気じかけの予言者たち」に書かれてはいるのですが、
メンバー決定の流れは最初の数ページと非常にあっさりとすまされています。

そもそも「T.M.ネットワーク」結成に関して能動的に動いていたのは小室氏であり、
受動的な立場であった木根氏が語ることができる範囲は限られます。

また読み物として面白くするためのデフォルメがあるにしても、
時系列や機材に関する話など、もっと基本的な部分で疑問符のつく点も散見されます。

ですので、自分は「電気じかけ~」シリーズは
『事実を題材とした、あくまでファン向けのお話』であるとして
それ単独では扱わず、数ある資料のうちのひとつとして位置づけています。



その点「TMぴあ」は、とっかかりとしてかなり面白い発言が多いのですが、
ただ発言が垂れ流されているだけで、聞き手側のつっこみが無いため、
体系立てて見えてくるものがなく、非常にもったいなく感じました。

中には『「Get Wild」のスネアを抜くというのは、ドラムを担当した山木氏からの提案』
という、今までのちゃぶ台をひっくり返すような発言もあり、
これはもっと論じられていいと思うのですが、相変わらずスルーされています。

(もっともこの本の誤植の多さに、単に助詞などが間違って印刷されているだけではないか
 という気もして、これまた何とも…)






話をもどします。
まず木根氏の「電気じかけ~」に書かれている、結成までの流れを見てみましょう。

 ・1981~82年頃、小室氏が木根氏に
  『僕と木根が曲を書いてボーカルが歌うユニットを作ろう』と誘う。
          ↓
  当初のボーカリスト「マイク」が国外退去。
          ↓
  木根氏が代替策として宇都宮氏を推薦。
          ↓
  ユニット名を「T.M.ネットワーク」と名付ける。

「電気じかけ~」では、この流れが細かい描写は無く、
一連のものとしてサラリと書かれています。


しかしこれに、もうひとつの有名な逸話

 ・小坂プロデューサーが小室氏に『歌モノじゃないと俺は引き受けない』と伝えた。

というエピソードを加えると両者に齟齬が生まれるというか、矛盾を感じます。





どういうことかというと

「僕は歌が入っていないものはやらないよ」という小坂氏の発言を受けて
小室氏が『(ボーカルを探すのに)1ヶ月待ってください』→ 宇都宮氏を誘う
という流れがあるはずだからです。
小坂氏もこの時のことについてに『すぐにボーカルを連れてきた』とのちに語っています。


ここから逆算すると宇都宮氏を誘う1ヶ月前、
つまり幅をみても1982年の終わりから83年初頭にかけてこの会話があったことになり、
その時点で小坂氏が聴いたデモテープは『歌モノ』ではなかったということになります。

ということは、この時点の小室氏がデビューを狙っていたのは、
木根氏との『歌モノ』プロジェクトとは別の(個人?)プロジェクトということでしょうか?

(もっとも小坂氏の発言にもブレがあり、氏の言う「小室テープ」は2種類あって、
 それぞれ別の時期に別のテープを聴いた可能性もあります)





つまりマイクが国外退去になった時点で、木根氏とのプロジェクトは
小室氏の中では一旦終わったプロジェクトになっていたのではないでしょうか。
この辺はなにせアマチュアの話なので、しっかりとした話し合いがあったとも思えません。
自然消滅しかかっていたという感じではないかと思います。

また、木根氏側もこのプロジェクトは再デビューに向けての
one of them に過ぎなかったと思われます。
そうでなければ当時「スピード・ウェイ」再起動にかけていた氏の姿勢と釣り合いません。
「電気じかけ~」でも、その程度のものだったと窺わせる描写になっています。



結局その後 TM NETWORK が成立したからこそ、
このプロジェクトに焦点が当たっているだけで、
本来は「T.M.ネットワーク」に直結するものではなく、
デビューに向け、あの手この手を繰り出していた小室氏にとっては
『そんなこともあったね』程度の様々な選択肢の1つに過ぎなかったのではないでしょうか。



ところが小坂氏に『歌モノじゃないと俺は引き受けない』と言われ、
当座のあてがなくなった小室氏は慌てて木根氏の元に舞い戻り相談、宇都宮氏を引き入れる。




このドタバタ劇が、今のところ自分の考える「T.M.ネットワーク」成立の流れです。




だからメンバー構成と(小室氏のやりたい)音楽性がチグハグな状態になってしまった。
そしてそのチグハグな状態の辻褄を合わせるため、各人がもがきにもがいた結果、
他に類を見ない独自性のある strange なグループに『なってしまった』

自分は小泉氏インタビューを通じて
「あれがダメならこれ。これがダメならあれ」と言う言葉が非常に印象に残ったのですが、
結局のところ TM NETWORK とは、小室氏がデビューに向けて闇雲に投げ続けた球の内、
たまたまの一球が固定化されてしまっただけのものなのではないでしょうか。

綿密な計算や展望のもとにスタートしたプロジェクトではなく
言葉は悪いですがラストチャンスを前にして『出会い頭に成立してしまったグループ』




しかし、これこそがこの30年間、
TM NETWORK の様なグループが他に生まれなかった理由とも言えます。(注)

これは細野氏が当初目をつけていたメンバーに断られ、
次善の策として、高橋・坂本両氏に声をかけ成立した YMO にも似ています。
またメンバーに共通していたのが "音楽性" ではなく、"柔軟性" だったというのも同じです。

もしそうなら、80年代後期の『国際版 TM NETWORK 構想』や、
90年代初頭にエイベックスと絡み始めた件などは、単なる野心や浮気心だけではなく、
小室氏もまた、もがいていたと捉えることができます。

    (注)だとすると、TMに憧れて「TMみたいなグループ組もうぜ!」
       と意気投合した時点で矛盾しているという、不思議な事態が…




どちらにせよ、この辺の実情は小室氏にしか知る由がなく、
しかし氏がこの流れを詳細に語ることありません。

30周年という大きな節目に、
このような基本的な部分の掘り起こしがなされなかったのは、残念でなりません。








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   おわりに


小泉氏の離脱以降、TM NETWORK はブレイクの流れに乗ったこともあり、
メンバー・スタッフ一丸となって邁進していたように見えますが、
1990年頃から、今度は小室氏と事務所の軋轢が起き、
結局、小室氏が事務所離脱 → TMN解散と流れてきます。

終了コンサートの運営から事務所関係者を排除。
また現在に至るまで TM NETWORK としての事務所が存在しないことなどを考えると、
もともとメンバーと一部のスタッフの間に、同床異夢という面があったのかもしれません。




しかしこれは音楽とは関係の無い話です。

本稿の内容以外にも色々な事があったそうですが、
それも含め、全て当人たちの問題であり、
私達、他人が口を挟むべきことではありません。




ただそれに巻き込まれる形で、
『1人の若者の ”情熱をかけた仕事の足跡” がかき消されている』
ということは、あってはならないことだと思います。

このイレギュラーな連載の趣旨は、あくまでここにあります。

中立的な立場から見ても、この30年間、
沈黙を貫いた小泉氏の姿勢には、なかなか出来ることではないと敬服いたしします。





最後にひとつ特記しておきます。

小室氏が小泉氏を外すことを画策しはじめて以降も、
ジュンアンドケイ音楽出版の松村慶子氏は
最後まで小泉氏のことを気にかけてくれていたそうです。





以上、
私的な色彩の濃い長文連載にお付き合いくださり、ありがとうございました。







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(P.S.)

新Blog の告知を出してから、多くの方から
「重箱Blog」の方はどうなるのか?とのご質問をいただきました。

本来この「重箱Blog」は、
自分の音楽Blogを作るための練習台に過ぎなかったのですが、
やりかけたままのネタもまだまだ多く、
ありがたいことに、楽しみにしてくださる方もいらっしゃるようですので、
このまま継続することとし、
自分の音楽Blogは、また別に新しく作ることにした次第です。
(本末転倒もいいところですが)

Blog 2本立てということで、しばらくはペースがつかめないと思うのですが、
これまで同様「重箱Blog」を楽しんでいただけたらと思います。

また、自分の音楽にTM的な要素は皆無ですが、
新しく始まる『音楽(と特撮)Blog』の方も、
冷やかし程度に覗いていただけると幸いです。
どうぞよろしくお願いします。



             2015.06.26 ミツカワ







2015年6月9日火曜日

【番外】TM NETWORK とはなにか? 〜 その2


この記事は前回からの続きとなります。
まず、こちらからお読みください。

・【番外】TM NETWORK とはなにか? 〜 その1


     (前回分)
     はじめに
  1:スピード・ウェイとはなにか?
  2:デビュー直前での路線変更

     (今回分)
  3:ちぐはぐな頭と体
  4:外圧







3:ちぐはぐな頭と体


ところがこの判断は、大きな問題の種も産みました。

パソコンや当時最先端のMIDIといった高度に専門化されたシステムが前に出ることにより、
正規メンバーのはずの木根氏に手が出せなくなってしまったのです。


「ファンの皆さんもご承知だと思うけど、結局「RAINBOW RAINBOW」の音に対して
 一番浮いちゃってたのが木根なんだよね。彼はそんなに曲数が書けるわけでもないし、
 レコーディングが始まったらやることなくなっちゃって…。
 おまけにレコードだけじゃなくてライブでもどうしようって話しになっちゃって、
 じゃあギター持って立たせとけば?って」(小泉氏談)




しかしこれは、木根氏だけの問題ではありません。
むしろ自分が気になるのは、もう1人の正規メンバーのはずである宇都宮氏の方です。




氏は TM NETWORK を始めるに当たって、8ビートのロックスタイルだった
スピード・ウェイから、80年代当時の先端スタイルであった16ビートに対応するため、
歌唱スタイルの変更を余儀無くさせられます。
「クロコダイル・ラップ」のラップ部分などが顕著です。


また16ビートだけではなく8ビートの曲でも、
スピード・ウェイ時代の古い "ロケンロールスタイル” を捨て、
16ビートを経過した8ビートを習得しようとしています。

例えば「1974」の歌い出しの赤字部分。

    ♫~ 夜の丘に車とめてひとり Feeling Breeze

先にレコーディングされたアルバム・バージョンでは、
巻き舌でずり下がるようなルーズな歌い方をしていますが、
数ヶ月後、再レコーディングされたシングル・バージョンでは、
譜面通りに一音一音、きちっと歯切れよく歌っています。

後者の歌い方こそ、我々の知る "TM NETWORKの宇都宮隆” にほかなりません。

その他、小室氏の特徴的な前置きのない転調への対応。
またフロントマンとしてのライブパフォーマンスについても
このあと数年、試行錯誤することとなります。





こう見ると結果的に、小室氏がバンドの構想に適した2人を引き抜いたのではなく、
2人の方が引き抜かれてからバンドのスタイルを身に着けようとしていることになります。
これはとても珍しい…と言えば聞こえはいいですが、
はっきり言って無計画極まりない話です。

特に宇都宮氏に関しては、歌い方もパフォーマンスも作り替えるなら、
何のためにスピード・ウェイを崩壊に導いてまで引き抜いたのか?

結局のところデビューへのタイムリミットが迫る中、
本来予定していたオーストラリア人のボーカルに問題が生じ、
もう、あてになるのは気心の知れた宇都宮氏しかいなかった、
ということだったのかもしれません。




おそらく小室氏の初期の構想では、そこまでズレのある選択ではなかったはずが、
結成後~デビューまでの間に路線変更が行われたため、
このような状況になったのではないでしょうか。

初期のインタビューで、
"自分ひとりでアーティストとプロデューサーを兼ねることの利点" を問われた小室氏は
「決定に至るまで自分の中で何度も迷っていても、黙っていれば誰にも気づかれない」
と語っています。

とにかく自分がいればなんとかなる。

どうもこの時期の小室氏はまとめ役(プロデューサー)としての自分の能力を、
過信していたきらいがあります。







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4:外圧


一方、小泉氏は当インタビューの通り『恐怖の三日間』を乗り越えて以降、
その存在を確固としたものにしていきます。

特にパソコンを中核とするシステムに関してはご本人のおっしゃる通り、
レコーディングでもライブでも『小泉に分からない事は誰にも分からない』
というような状況であり、レコーディングの取り組みからライブの段取りまで
『小室ー小泉ライン』で物事が決まっていく、ある意味当然の流れが生まれます。

当時の重厚長大な機材の存在感は、
初の全国ツアー「Dragon The Festival tour」の曲順や演出が、
サンプラーのロード時間の都合から決められていたというエピソードからも明らかです。




このような状況でしたので、1984年末の時点で
小室氏としては小泉氏を正式メンバーとして迎えるつもりがあったようです。
この意向は小室氏の後ろ盾であった、ジュンアンドケイ音楽出版の松村慶子氏にも
通じており、了解を得ていたとのこと。

当時の制作実態を見れば、これは自然な流れといえるでしょう。
小泉氏の役割が単なるサポートの領域を超えていたことは、
当インタビューをお読みくださった方にはお分かりいただけると思います。






     しかしこの流れに大きく異論を挟む、もう1つの流れがありました。
          当時の TM NETWORK の所属事務所です。





もちろん自分にはその真意はわかりません。
しかしここは公平を期するため、あくまで推測となりますが、
小泉氏に伺ったお話を元に、事務所側の立場から考えてみましょう。


TM NETWORK の所属事務所は元々、スピード・ウェイの人脈、
さらに言えば木根氏の友人によって作られていたわけです。

おそらく事務所側が望んだ TM NETWORK の形とは
『スピード・ウェイのリベンジプロジェクト』だったのでしょう。

事務所側も一歩間違えれば道連れにされる覚悟でメンバーのラストチャンスに賭け、
熱い想いで日々の仕事に取り組んでいたはずです。



しかし、いざ活動が始まってみると音楽活動の根幹は、
小室哲哉と、小室哲哉の連れてきた小泉洋という
『(小泉氏いわく)ポッと出のよく分からない男』とのラインで動いていきます。

これは先に書いた、デビュー直前の路線変更に起因するわけですが、
この状況を『TMのリーダーは小室。サブリーダーは小泉』と揶揄する人もいたそうです。

結果、レコーディングが始まると木根・宇都宮両氏にはすることが無く、
蚊帳の外から見守る、という状況になっていたわけです。
木根氏の回顧にも「延々と続く打ち込み作業を、ひたすら待っていた」
ということが書かれています。





さらに加えて、これは小泉氏には関係のない話ですが、
自分には、もうひとつ気にかかることがあります。

レコード会社から木根氏を『宣伝上は外す』と宣告されたことです。

今はもう笑い話として処理していますが、
普通ならこれをきっかけに解散となってもおかしくないレベルの異常な話です。

そのため6月に行われたデビューライブでは、観客から
「TM NETWORK は2人のはずなのに、なんで3人いるのか?
 あのサングラスの人はメンバーなのかサポートなのか?」
という問い合わせがあったといいます。

また自分もTMデビュー直後の小さな紹介記事に
『TM NETWORK は、小室哲哉・宇都宮隆・木根尚登による "デュオ”グループ』
という頭を抱えたくなるような一文があったのを憶えています。



小室氏も語っているように木根氏は当時、スピードウェイにおけるゴタゴタで
かなり疲弊していたのだと思います。
そのため大抵の事は飲むつもりでこのラストチャンスに臨んでいたのでしょう。

しかし普通に考えれば、はらわたが煮え繰りかえってもおかしくない話です。
愚痴をこぼすこともあったかもしれません。

これは横で見ている事務所、ましてや旧友としては
許しがたい思いもあったのではないでしょうか。
ましてや、ついこの間までは長年続いたバンドのリーダーだった人間です。





結局この事務所からの横槍は、存在感の大きくなる一方の小泉氏と、
その裏で存在感の確立に苦慮している木根氏、
という事態に危機感を抱いたものだと思われます。

インタビュー時、小泉氏に
「そういう "外圧" はいつごろから感じられるようになりましたか?」と伺ったところ
「俺が気になり始めたのは2ndのレコーディング途中、いや終わった頃ぐらいかな?」
とお答えになりました。

「実際にはもっと早い時期からあったんだろうけど、
 とにかく1年目はもうそんなことかまってられるような余裕なかったからね、俺にも。
 とにかく日々押し寄せてくる技術革新と戦うのが精一杯で」





この『横槍』に関しては、小泉氏のおっしゃるとおり
“いまさら" ということでもありますので、詳しく書くことは控えさせていただきます。

ただ、これは小泉氏をかなり疲弊させたということだけは、はっきりさせておきます。

「最初は俺も反発したけどね。お互い若いということもあったし…。
 でも、だんだんおとなしくなったよ。
 こっちはいい音楽を作ることに集中しているだけなのに、
 なんで嫌がらせされなきゃいけないんだって」

「"俺がいる TM NETWORK" がウレることは、事務所として我慢ならなかったんだろうね」





なお、この "事務所側の意向” は小室氏にも伝わっていたようですが、
少なくとも1984年中の小室氏は意に介していなかったようです。

革新的な音楽を作りたい → それが出来る仲間(小泉氏)がいる → だからその人と作る
それになんの問題があるのか?という理屈です。

この小室ー小泉ラインのコントロールの効かない状況に、
事務所側は苛立ちを募らせます。

『当時の純粋無垢な若者だった私たちは(手続きや形式といった)
「大人の都合」というものをまるで理解していなかったのかもしれないね』(小泉氏談)

当インタビューで小泉氏は
『「コンピュータープログラマー」「シンセサイザーマニピュレーター」
 という意識はなかった。あくまで4人編成のバンドのメンバーとして参加していた。
 自分がやっていることはそういう名前の職業なんだということは後から知った』
と仰っていました。

対外的な発表でそう称されていたことについて、当時小泉氏は
「そういう枠をはめたかったんだろうね。枠をはめて、そこから出てくるな。
 お前の役割はあくまでそれであって、そこからは一歩も出てくるな、ということだろうね」
というメッセージを感じたといいます。





このような状況で迎えた1985年初頭の時点で、TM NETWORK は、
木根氏・宇都宮氏のスピード・ウェイ ラインと小室氏・小泉氏による、
いわば C-Dragon Project ラインという二重構造を抱えていたことになります。

この年は TM NETWORK にとって試練の年であり、
2nd album の初動の悪さに、小室氏はかなりうろたえたとのこと。
TM 以外の選択枝を探ったフシもあり、
この二重構造のままでは、小泉氏を迎えた4人組になるどころか、
2つに分裂崩壊していた可能性すらあります。










        『TM NETWORK とはなにか? 〜 その2』終わり





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