2015年3月15日日曜日

30th特別企画【小泉洋氏インタビュー】を終えて



本文でも語っていますが今回採り上げた「CHILDHOOD'S END」は、
ミツカワにとっての Favorite Album であります。
それゆえに、このアルバムだけでしか味わえない雰囲気の正体はなんだろうと
長年考えていました。

今回、その疑問に対し小泉氏は明確な答えをくださいました。
音の "色艶” です。

確かにサードアルバム以降のTMは、色気や艶といった部分はブラスセクションや
サックスソロなどの生楽器に割り当て、シンセはむしろ正反対の無機質で
立ち上がりの早い機械的な音を前に出すようになっていきます。




これはターゲットが定まっていなかったということと表裏一体かもしれませんが、
セカンドは他のアルバムに比べ、歌詞だけでなく
サウンド自体の対象とする年齢が少し高めのような気がします。

だとすると、その要因の1つは小泉氏の存在だったのではと感じました。

また、ファーストアルバムとも異なるこのアルバムの雰囲気から、
当時のミツカワは TM NETWORK = シティーポップス と認識していました。

これは木根、宇都宮両氏にとってもスピード・ウェイの資産を生かせる、
TM NETWORKとしては珍しく、企画先行ではない(これについては後で述べます)
むしろ自然体に近い "居心地の良い" 作風だったのではないでしょうか。




小泉氏の話からは離れますが、ミツカワは以前、
セミプロ時代の小室氏とバンド仲間だった方と同席させていただく機会がありました。

この方のお話では、ある時小室氏が誰に言うでもなくボソッと
「角松くんにはしてやられたよなあ…」とつぶやいたことがあったそうです。

はじめはセミプロ時代、バックバンドの仕事に関しての話だと思い、
気に留めていなかったのですが、どうも頭に残り、
後からその発言時期を確かめてみると、セカンドアルバムの頃だとのこと。

つまりファーストアルバムにおけるファンタジックなエレクトリックポップス路線が
空振りに終わり、行き先に迷っていた小室氏としては
シティーポップス路線も視野に入れていた、ということでしょう。
しかしその席にはすでに角松敏生や村田和人などが座っていた…。
そこから出た発言だと思われます。



そう考えると本人にとっては不本意かもしれませんが、
TM NETWORK の作品の中でセカンドアルバムは(結果的に)唯一、
"プロデューサー・小室哲哉" ではなく、
"アーティスト・小室哲哉" の存在が表に来ている作品ではないでしょうか。

常に「普遍的なものより、その瞬間・時代を切り取る音を作りたい」と言い続けている
小室氏が、セカンド発売時のみ
「今すぐ売れなくても、末永く評価されるエバーグリーンな作品になっているはず」
と語っていたのが象徴的です。
















































♫ Twinkle Night ~魔物たちの夜


さて小泉氏はご自分の作り出す音を、色気や艶と表現されましたが、
ミツカワはもう1つ感じるものがあります。

それは “魔性" です。

特にミニアルバム「Twinkle Night」は元々、映画「吸血鬼ハンターD」からの
派生商品という側面があり(注)この作品でしか味わえない独特の雰囲気を携えています。

 (注)「吸血鬼ハンターD」発表当時、小室哲哉は
    『ここから3つの流れ(サントラ・シングル・イメージアルバム)ができる』と発言。
    このイメージアルバムの企画が、その後「Twinkle Night」になっていったようです。




特に「Electric Prophet」における最初の1小節。

たった1小節で聴く者をどこか異世界へ引きずり込む “鬼気迫る" 何かを感じます。
これ以降の曲を考えても、この1小節に匹敵するような「引きずり込む」曲はあまり
見当たりません。「A Day In The Girl's Life」「Beyond The Time」くらいでしょうか?
ただその2つも “魔性" とはまた違うと感じます。

そういう意味で「Electric Prophet」は曲自体はTM NETWORKの代表曲ですが、
その音色や音の組み立てはむしろ異色作ではないでしょうか。
発売当時、ライブでの素朴なフォークロック調のアレンジに慣れ親しんでいたファンから
拒否反応が出たのもこの辺だと思われます。

セカンドアルバムにおける音色も、既に魔性を感じさせるものがあります。
「愛をそのままに」での木根氏の不安は、その匂いを嗅ぎとってしまった故かもしれません。



歌詞、メロディー、アレンジではなく、
『音色』そのものに主張・世界感があるとも言えるでしょう。



小泉氏はシンセサイザーオペレーターという職業の特異性について
「機械的な知識だけでは出来ないし、アーティストとしてのイマジネーションだけでもダメ。
 両方が無いと出来ない」とおっしゃっていました。

たった1年でシンセサイザーという電子楽器から、
この色気・艶・魔性とも言える音色を生み出すに至ったこの時期の小泉氏をみると、
技術面は1年のキャリアでも、アマチュア時代からの音楽活動によって磨かれた
アーティストとしてのイマジネーションが、その成長を大きく促したのだと感じます。




結局このミニアルバムが TM NETWORK における小泉氏最後の作品となるわけですが、
この作品はたった4曲しか収録されていないにも関わらず、
その完成度は当時から非常に評価が高く、シングル「Your Song」と合わせ、
第一期 TM NETWORK の総決算と呼べるでしょう。

アルバム製作にあたってのヨーロッパ旅行から始まり、
セカンドアルバム ~ ツアー ~ ミニアルバム と
小泉氏が最後の最後まで手を抜かず、全力投球されていたことが伝わってきます。



















































♫ あとがき ~金色の夢の肌触り~


昨年末から3回にわたってお送りした
『30周年特別企画・小泉洋氏インタビュー』いかがでしたでしょうか。

手前味噌になりますが30周年を迎えた時、僕が期待したのが
この様な内容のインタビューでした。
まずは一区切りつけることができて、ほっとしています。

全3回、それぞれ
・小泉、小室両氏の出会いから、当時のバンドマン達の熱い思いと焦燥感。
・ファーストにおける悪戦苦闘
・セカンドでのこだわり、ツアーでのフル回転。

『小泉洋』と言う新たな切り口を与えていただいたことで、
今までとは違う TM NETWORK の側面が見えてきました。





ここではこのインタビューを行うに至った自分なりの動機・経緯など、
最後にちょっとだけ僕自身の気持ちを書かせてください。






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インタビュー当日の別れ際、小泉氏はすまなそうに
「たいしたこと話せなくてごめんね」とおっしゃいました。


しかしその小泉氏にとっての「大したことのない話」。
ミツカワは文章化している際、あまりにも自分の発言が「えええ!?」とか「へー」ばかりで
我ながら「バカみたいじゃん、俺…」と思ったほどです。まあバカなんですが。

お読みいただいた皆さんはいかがだったでしょう?
皆さんも、きっと「えええ!?」とか「へー」の連続だったのではないでしょうか。


特にデビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」における、
1983年晩秋のレコーディングスタジオにパソコンを持ち込んでの試行錯誤。
あの時代にシーケンサーではなくパソコンでアルバム制作が行われたということは、
これが日本初だったかは今となっては定かではありませんが、
『第一陣』に含まれていたことは間違いなく、
TM NETWORK という枠を越えて、語り継がれるべきことであると考えます。


なのに、なぜこんなに基本的かつ重要な話が今まで公になされていないのでしょうか?


しかも他のアーティストと違いTMの場合、
ただ "早くから行われていた" というだけではありません。

もしこれがうまくいかなければ、80年代一世を風靡する
『TM NETWORK =パソコンを駆使したハイテク・グループ』
というイメージ戦略が成り立たなかった可能性すらあります。
それほど当時、パソコンはインカムと並ぶ TM NETWORK のアイコンでした。






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正直に言って今回のインタビューを行うにあたっては、
自分の中でかなりの葛藤がありました。


というのもこのBlog「TM NETWORK の重箱のスミ!」のコンセプトは
対象者と適切な距離をおき『本人に聞かない』『公式を疑う』というものだからです。

誰もが簡単に(それが本当かはともかく)答えにアクセス出来る時代において、
客観的な資料を元に、自分の頭で推理・妄想するという
『過程を楽しむ』ことこそが自分にとっての譲れない柱でした。

つまり「TM NETWORK の重箱のスミ!」において、重要なのは
「TM NETWORK」ではなく「重箱のスミ!」なのです。
(実際このBlogを立ち上げる2週間前までは
 「東映ヒーロー/監督・脚本家列伝」という内容を予定していました)

これが、このインタビュー企画時のみ
「TM NETWORK の重箱!!」とタイトルを変更した真の理由でもあります。




ではなぜ、禁じ手中の禁じ手である『直接インタビュー』を決意したのか。




この一連のインタビューは昨年の11月初旬に行ったものですが、
実は小泉氏との連絡は昨年春の時点でとれていました。
しかしこのような事情でしたので、直接お話を伺うという考えはありませんでした。

一連のインタビューをお読みいただいた皆様であれば納得いただけると思うのですが、
小泉洋というキーマン抜きで 初期 TM NETWORK の実態を掴むことはできません。
ですので30周年という大きな節目とあれば、さすがに公のインタビューが行われるであろう。
その前に自分がしゃしゃり出て、読者の方が受ける新鮮な驚きに
水をさしてはいけないと考え、ご挨拶程度にとどめておきました。


つまり30周年スタートの時点では、かなり楽観的に考えていたわけです。


ところがいつまでたっても、その様子が伺えません。
そのままズルズルと時が過ぎ、秋も深まる中発売された「小室哲哉ぴあ TK編」のページを
めくって失望・落胆した自分は、結局それを購入せず棚に戻しました。
(これは一連のインタビューラッシュの中で、この本の発売が
 当年終わりの方だったというだけであり、「ぴあ」だからという意味ではありません)




この30周年という大きな区切りをもってしても、小泉氏は公に現れないのか。






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いや、現れないだけならともかく、
何よりTMのメンバーが不自然なほど、誰1人語ろうとしません。


"BEE" presents TM VISION(vol.1)より変な日本語






























ただ注意して見ていると、その影は感じとれます。

しかし、例えば秋に出たキーボードマガジンのインタビュー中
「RAINBOW RAINBOW」について木根氏が
『マニピュレーターが普通の人たちでは買えないような良いシンセサイザーを
 いっぱい持っていたので、それを使って作った』と話していますが、
実態は小泉氏インタビューの通り、『持っていた』のではなく
『その時点では素人同然の者が私財を投じて購入しつづけていた』わけです。

木根氏の発言から受ける印象とは、かなりの隔たりがあります。




自分が先に書いた『本人に聞かない』『公式を疑う』という
コンセプトをとった理由のひとつは、まさにこういうことがあるからです。

背景を知らずに言葉だけ抜き出しても、どうとでもとれてしまう。
なにより怖いのは、その結果なんとなく分かったような気になって、
それ以上考えなくなってしまうことです。
(個人的に「小室哲哉ぴあ TM編」はその手の発言の宝庫でした)






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さらにショックだったのは『小泉氏に触れない TM NETWORK』について、
ファンが違和感を抱かないということです。

それどころか小泉洋という名前を知らない。
知っていても "初期のサポートメンバー" 程度の認識でしかない。

もっともこれはファンに責任はありません。
ある時期より小泉氏の存在は、TM NETWORK の歴史から消されてきたからです。
これは小泉氏のインタビューが存在しないとか、
メンバーが言及しないだけの話ではありません。



お持ちの方は確認していただきたいのですが、PARCOライブが収録された
TM NETWORK 初の映像作品「VISION FESTIVAL」のインナーには
ヘアメイク担当者などのクレジットまできちんとされているのに、
あれだけ深く関わられ、なおかつ映像にも写っている小泉氏がクレジットされていません。




























つまり小泉氏が TM NETWORK を離れる以前から、すでにこの流れはあったわけです。
(「VISION FESTIVAL」発売 1985年8月)




予告編でミツカワは『ここまで表に現れないという事は、
そこに何かしらの事情があるという事は推測できる』と書きましたが、
これは相当、根が深い問題であると今更ながらに思い知りました。






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しかしその『事情』を暴き立てるのが、このBlogの目的ではありません。

今回、僕が行ったインタビューの目的は、
・小泉洋は単なるサポートメンバーではなかった。
・それどころか、作品の核となる部分に関わっていた。
・TM NETWORK は、実質4人で動いていた時期があった。
という事を、まずはネット上に書き残しておくことです。

インタビューをお読みいただけば分るように、この時期については
PARCOライブで初披露された「Quatro」という曲のタイトルが
全てを物語っているでしょう。

この点については、当初の目的を達する事が出来たと自負しております。





しかしこれ以上の事となると、やはりこのような正史に残らない個人ブログではなく、
公式のインタビューとして公のメディアで語っていただきたい。





他のアルバムに比べ、初期の2枚のアルバム+ミニアルバムは
その制作実態がどうもはっきりしません。
いつも中心の欠けたドーナツ状の話ばかり聞かされてきたとミツカワは感じています。

「CHILDHOOD'S END」だけに絞っても、
その後のコメントでは『迷いの時期だった』の一言で片付けられていますが、
実際は当初のコンセプトが二転三転し、

 ・録音したサポートミュージシャンの演奏を全部消去して一から作り直す。
 ・制作の進め方にあたって、小坂プロデューサーとの軋轢
 ・アルバム完成後もキャッチーさに欠けるとレコード会社から判断され、
  別にシングル用の曲を作る事を要求される。

など、次々と腰砕けの状態になり結果的に「作品集」といった形に収まった様子が伺えます。

また、このアルバムが全く売れていないことに動揺した小室氏の脳裏には
"TM NETWORK 以外の選択肢” が浮かぶこともあったようです。



この辺を丹念に取材していけば、作られたストーリーに守られたアイドルではなく、
ドラマティックで酸いも甘いも噛みしめた
アーティスト(Human)としての TM NETWORK を歴史に刻むことが出来るでしょう。



しかし、その大きなチャンスになったかもしれない NHK-BS『MASTER TAPE』では、
当初、『RAINBOW RAINBOWを紐解く番組』との企画案が出されたものの、
小室氏に即、却下されてしまったそうです。






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ミツカワとしては、とにかく小泉洋・小室哲哉・木根尚登・宇都宮隆といった方々に
初期の作品群の制作実態、葛藤、その悪戦苦闘ぶりを公の場で語ってほしい。


今回の小泉氏インタビュー中にも、音や人名など何らかのキーワードがあれば、
とたんにあやふやだった記憶が鮮明に蘇るという場面が多々ありました。

さらに今回は「小室哲哉の旧友としての小泉氏に焦点を絞る」と宣言したように、
作品に関する具体的な作業工程などはあまり深くお聞きしませんでしたが、
やはり音色の話となると、ものすごい反応速度で答えが返ってきました。

この様子を見ていると、インタビュー初回冒頭に書いたように、
一人一人の記憶が曖昧でも皆で話せば確かなことが浮き彫りになってくるだろうと感じます。


そのなかには先に書いた TM NETWORK という枠を越えた貴重な出来事が
(技術的なことだけではなく)まだまだ含まれているはずです。






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ですので、これをお読みいただいているファンの方々も
『ファンであるならばこそ』このような中途半端な採り上げ方で満足されず、
ぜひ本当のことを知りたいと声を挙げていただきたいと思います。


デビュー前の小室氏が、自身で所有していた廉価なシーケンサーで作ったと思われる「INTRODUCTION [ANY TIME]」(TMN GROOVE GEAR 収録)。

この曲における、牧歌的とさえ言えるシンプルなシークエンスに対し、
冒頭から16分音符が雪崩を打つように押し寄せる「1974」を聴けば、
デビュー時における小泉氏の果たした役割の大きさは一聴瞭然です。






ミツカワとしては、
どんな事情があれ『作品にかけた想い』そのものは否定されるべきではないと考えます。






































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最後になりますが、お話を伺うだけでなく自宅で手料理をふるまっていただいた小泉洋氏。

また、資料確認から相談まで付き合ってくれた
・青い惑星の愚か者
・GAUZE
・かっと
各氏に感謝いたします。









さて次回からは、通常の「TM NETWORK の重箱のスミ!」に戻ります。
個人的に慌ただしい時期に入るので、更新が遅れます…と書こうとしましたが、
現状でも十分遅れている(ほんと、ごめん)ので、さして変わらないと思います。

今後とも気長にお付き合い下さい。