ミツカワです。
まずはみなさまにお知らせです。
この年末から年始にかけ、期間限定でこのブログのタイトルが
『TM NETWORK の重箱のスミ!』から
『TM NETWORK の重箱!』へと変わります!
え、お正月だからだろって?
違います。
『重箱』の名にふさわしい、ぎっしりと中身の詰まった 豪華な企画 となるからです。
(まあ、グルーポンおせち事件みたいなことにはならないと思う…思う…思う…)
詳細は後ほど。
今回はその特別企画の前振りとなるエントリーです。
来たるべきお正月企画に向けて、じっくりとご覧ください。
【ミツカワはそれを我慢できない】
ミツカワは不満だった。
今年は TM NETWORK にとってメモリアルイヤーということで、
メンバー自身がデビュー当時のことに触れる機会が多かった。
また、普段ならあまりその声を聞くことが出来ない方々のインタビューも読むことができた。
実はミツカワ、80年代の “旧・TM NETWORK" は
『プロデューサー・小坂洋二氏の作品』として捉えているので
「小室哲哉ぴあ TM編」に載った同氏インタビューは、とても興味深く拝読した。
また「キーボードマガジン」に掲載された、
FANKS期の音作りを担った シンセサイザーオペレーター、
迫田至(現・到)氏のインタビューもなかなか読み応えがあった。
しかし、これだけ一気に情報の渦が押し寄せても、
以前、書いたように相変わらず空白地帯が存在している。
特に初期(デビュー前から)のサポートである、
小泉洋・白田朗、両氏のインタビューが全く行われていない。
また本来なら ”あって当然” すぎて忘れがちではあるが、
久保浩二氏のインタビューもあまり読む機会がない。
個人的には、1987年武道館公演を終えた直後のインタビューで
小室哲哉がその名をあげ「感謝する」と話していた、
ローディーの清野(セイノ)公雄氏の話も、
なかなか興味深いものが出てきそうで聞いてみたいものだ。
ちなみに清野氏は「CAMP FANKS '89」関連の映像を見ていると、
サポートミュージシャンよりも多く(?)写っている。
折に触れ、自分は熱心なファンではないと言う 謎アピール をするミツカワだが、
その理由をはっきり書いてしまうと
ミツカワは TM NETWORK のファンであっても、
小室哲哉・宇都宮隆・木根尚登、各氏個人のファンではないのだ!
ミツカワが30年来 TM NETWORK を好きだった理由は
『TM NETWORK と言う
(メンバー3人を含めた)スタッフ・ワーク』
がたまらなく好きだったから。
そういう意味で、すでに鬼籍に入られている方は仕方がないとしても、
先に書いたような空白地帯は非常に残念である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
しかしミツカワの感じている不満は、そういう個人的な嗜好の話だけではない。
先に挙げた方々の中でもミツカワが特に別格として重要視している人がいる。
この重箱Blogでも何度かとりあげている『小泉洋氏』である。
【以前の関連エントリー】
【順序は前後しますがこちらもどうぞ】
その理由は、デビュー当時からのファンの方には言うまでもないだろう。
しかしブレイク以降、ましてやTKブームなどの後追いでファンになられた方には、
いまひとつピンとこないと思う。
それは小泉氏本人のインタビューが残っていないということと、
商品化された映像内でもはっきりと写っている場面が少ない、ということがあると思う。
ファーストビデオの「VISION FESTIVAL (journey to saga)」では、
ライブ部分にガッツリ出演しているのに、
ライナーにはクレジットさえされていない。
そこで、まずはTMメンバーの発言をご覧いただきたい。
【小泉洋は単なるサポートではない】
ここで参考とするのは、1986年末に発売された
Personal Book『EARTH』に掲載された、
その時点(最新シングル「All-Right All-Night」)での、全曲解説コーナーだ。
関係のある部分のみ抜粋したが、けっこうな長さになってしまった。
本エントリーの中核部分になるので、ご容赦願いたい。
(見づらい場合はクリックしていただけば拡大します)
まずはアルバム「RAINBOW RAINBOW」について。
次にアルバム「CHILDHOOD'S END」から
いかがだろう。これを読むだけでも
『コンピュータープログラマー・シンセサイザーオペレーター』
という肩書きから受ける印象とは異なり、
初期の曲作り、さらに時には歌詞の作成時(!)にまで関わっていることが分かるだろう。
しかも、スタジオでの作業以外にも、
彼の自宅に TM NETWORK の3人が集まって作業をしていたことが分かる。
さらに もう一つ、重要なこと がある。
それは、小泉洋は小室哲哉の 高校時代からの友人・同級生 だということだ。
つまり小室哲哉が宇都宮隆、木根尚登と出会う前から、
2人は音楽仲間であり、友人関係だったということだ。
この、メンバーと上下関係、あるいは仕事関係ではなく、
アマチュア時代からの横並び一線の立ち位置だったというのは、
その後の多くのサポートミュージシャンと違う点である。
セミプロ時代からの付き合いという意味では、
白田朗や北島健二などがいるが、
彼らは曲作りの段階から参加しているわけではないし、
アマチュア時代からの近所付き合いというレベルでもない。
アマチュア時代からの近所付き合いというレベルでもない。
端的に言えば、
木根尚登に宇都宮隆がいたように、
木根尚登に宇都宮隆がいたように、
小室哲哉には小泉洋がいた、
というような関係だったと思われる。
というような関係だったと思われる。
このメンバーとの関係性と、先に挙げたレコーディングの実態を考え合わせると
この時期の TM NETWORK とは、
小室哲哉+宇都宮隆+木根尚登+小泉洋 の4人組
と言っていい実態だったのではなかったか?
小室哲哉+宇都宮隆+木根尚登+小泉洋 の4人組
と言っていい実態だったのではなかったか?
さらにデビュー直後は、木根尚登が影のメンバー扱いだったわけで、
そう考えると、ますます混沌としてくる。
実際、当時のライブで宇都宮隆は小泉洋をこう紹介している。
宇都宮「えー、こういったライブやレコーディングとかずっともう、
TMが結成されてから、ずっと手伝ってもらっているんですけど…」
客席 「小泉さ~ん」
宇都宮「(苦笑)知ってる人は知っている」
客席 「(笑)」
宇都宮「もう、TMの分身と言ってもいいくらいなんだけど…
コンピュータープログラマー&キーボード・小泉洋!」
(1985年2月、広島での初コンサートより)
ミツカワが『小泉洋』にこだわる理由がわかっていただけただろうか?
しかも、よく使われる "4人目のメンバー" などという立ち位置ではなく、
場合によっては
『4人目』どころではなかった 可能性すらうかがえる。
『4人目』どころではなかった 可能性すらうかがえる。
次の項目を見てほしい。
【ん?そのピコピコはどこから来たの??】
TM NETWORK は1984年
シンセサイザーとコンピューターによる打ち込み
を駆使したグループとしてデビューした。
を駆使したグループとしてデビューした。
この "シンセサイザーとコンピューター” というパブリックイメージは、
デビューから30周年を迎えた今に至るまで、揺らぐことなく続いている。
だが、しかしである。
その 基本中の基本が ミツカワには 謎 であった。
本来、特に小室哲哉がアマチュアからセミプロへの道を歩んだ70年代においては、
シンセサイザーとコンピューターは無関係であった。
シンセサイザーはあくまで
『特殊な音が出る(作れる)鍵盤楽器』(注)に過ぎなかった。
『特殊な音が出る(作れる)鍵盤楽器』(注)に過ぎなかった。
つまりピアノやオルガンと同じである。
(注)元は『鍵盤』楽器ですらないが、
ここでは当時、小室哲哉が使っていた機種に限定して『鍵盤楽器』とする。
"シンセサイザーと小室哲哉” に関しては疑問を挟む余地は無い。
大阪万博での出会いや、その後の遍歴など本人の口から何度も語られている。
問題なのは "コンピューターと小室哲哉“ だ。
例えば ”GIZMO” あるいは ”SPEEDWAY”
そして TM NETWORK 結成直前の ”小室哲哉 and STAY” など、
TM NETWORK デビュー以前の活動からは、
シンセサイザーへの傾倒は感じられても、
シンセサイザーへの傾倒は感じられても、
コンピューターの打ち込み音は微塵にも感じられない。
せいぜいシンセサイザーに内蔵されたアルペジエーターを鳴らす、
あるいはリズムマシンを鳴らす程度であって、
70年代末期にすでに世間を席巻していた、そして後に TM NETWORK でも導入される、
『コンピューターのプログラムによってシンセサイザーを自動演奏する手法』には程遠い。
むしろ対極にあるといってもよいほどだ。
では TM NETWORK、ひいては小室哲哉とコンピューターの打ち込みは、
いつ、どうやって結びついたものなのだろう?
ここで2つの発言を見ていただこう。
清水「(最先端のデジタル機器について)結構古くから?」
小室「いやそうでもないです。
僕は意外とデジタルっていうのは遅れてて、MIDI なんかもね、
もう結構ずいぶん、もうみんな知って浸透してから使い出して…」
(1986年・アルバム「GORILLA」発売時の清水信之との対談より)
さらに1年遡る。
平山「小室君とはね、けっこう前から知り合いで、
ある意味ではさ、アナログのプレーヤーだったと思うんだよね」
小室「そうですね」
平山「特に最初の頃はね。それがさコンピューターと出会ったのって、いつ頃だったの?」
小室「まだ2年になってないですね。う~ん、2年位かな?」
(1985年5月・シングル「ACCIDENT」発売直前の平山雄一によるインタビューより)
いかがだろうか。
1985年5月の時点で2年前位という事は、1983年春から夏ということだ。
つまり小室哲哉は TM NETWORK の結成時に
初めてコンピューターと(音楽的な意味で)出会ったということになる。
断っておくが、この時代のコンピューターは
ミュージシャンが今日初めて触って、明日からすぐに使えるような代物では、
とてもではないが、ない。
ならば、小室哲哉が自分のリーダーグループを作るにあたって、
シンセサイザーはともかく、
コンピューターを活用したグループなどという構想は
どこから生まれてきたのだろう?
シンセサイザーはともかく、
コンピューターを活用したグループなどという構想は
どこから生まれてきたのだろう?
さらに同インタビューでの次の発言。
小室「とにかく友達が(コンピューターを)買ってきて…で、なんか、
(自分は)とてもコンピューターと音楽が結びつくとは思ってなかったから…」
(自分は)とてもコンピューターと音楽が結びつくとは思ってなかったから…」
〜 中略 〜
「~ あんまりアイディアと結びつかなかったんですよ。
で、それを聞かせてもらって、いろいろやれるっていうのを。
どういうことできるの?どういうことできるの?っていうのを
どんどんどんどんやっていったら…」
この発言は決定的ではないだろうか。
この発言の『友達』というのは 当然、小泉洋のことだ。
つまりは、1983年 グループ結成時、
そこに小泉洋がいたから
TM NETWORK は打ち込みのユニットとしてデビューしたのではなかったか?
もし彼がいなかったら、今ごろ『小室哲哉は、1984年から、EDM。』
もちろん、派手で新し物好きの小室哲哉のことであるから、
いずれはコンピューターの打ち込み音にのめり込んだとは思われるが、
少なくとも1983年結成当時の構想、及び同年10月からレコーディングが始まった
デビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」は、
あのような音にはならなかった可能性がある。
あのような音にはならなかった可能性がある。
ひとつの可能性として、木根尚登著「電気じかけの予言者」に
「1974」のデモテープを作る際の手法として書かれている、
リズムマシン + その当時よく行われていた、
手弾きのフレーズをテープの速度を変えることによって機械風にする、
なんちゃってシークエンス などを駆使した、
シンセ多重録音作品となっていたのではないか?
シンセ多重録音作品となっていたのではないか?
デビュー2年目の1985年までは、小室哲哉本人が、
『実際に打ち込んでいるのは自分ではない』と明言しているし、
TVで機材などを紹介するときも、小室哲哉は鍵盤を弾いているだけで
パネルの操作は横に立った小泉洋が手を伸ばしてスイッチを押すという
二人羽織状態 がみられた。
この時期までは、実際に音を具現化する作業は "小室哲哉と小泉洋の二人三脚” であり、
場合によっては "小泉洋におんぶにだっこ” だったわけだ。
ちなみに1986年以降、小室哲哉自身がコンピューターによる打ち込みを始めるが
これはソフトウェアのバージョンアップにより、手弾き入力が可能になるなど
(技術屋ではなく)ミュージシャンが扱いやすくなったことが大きな要因と思われる。
つまり ”打ち込みなのに全編手弾きで入力する” という、
小室哲哉独特のデーター入力スタイルは、
これ以前には成立しない。
【実は我々は TM NETWORK のことを何も知らないのではないか?】
となると、「TMN Groove Gear」に収録された「Introduction (Any Time)」など
"TMデビュー以前に小室がEpic/Sonyに持ち込んだデモ音源” なる物の、
制作時期や使用機材が気になるところだ。
少なくとも「Introduction (Any Time)」は、
1トラック、かつ単音ではあるが打ち込みの音が鳴っている。
(だからといって全曲、打ち込みが入っていた確証はない)
そもそもデビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」は、
どういう機材を使ってレコーディングされていたのだろうか?
使用シンセサイザーは音を聴くことで、ある程度判断がつくが
打ち込み機材に関しては全く分からない。
セカンドアルバム「CHILDHOOD'S END」のライナーには
使用機材が事細かに書かれているが、
デビューアルバムには、一切書かれていないのだ。
また、先に書いた1985年5月の平山雄一によるインタビューで小室哲哉は、
やらないと言いつつ、初ライブ(1984年6月)をやった動機を聞かれ
「去年のまだ春って言うと、同期物でライブっていうのは、
世界でまだあったか、なかったかっていう…そういうギネス的な発想で(笑)」
と語っているのだが…
何が世界で初めてなのだろう?
打ち込みとの同期ライブは、
すでに YMO がペンペン草も生えないレベルでやりつくした後である。
もちろん小室哲哉がその事を知らないわけがない。
だとすると、何が世界初なのだろう?
そういえば、デビュー前に作った「1974」のデモテープ。
木根尚登の著書「電気じかけの預言者」では、
小室哲哉が1人で ドラムマシン と KORGのPolysix だけで作った、と書かれているが、
以前こちらにも書いたように、当時から付き合いのあった白田朗氏の回顧録によると
24トラックを駆使した、小泉洋によるバリバリの打ち込みサウンドだったと語っている。
???
ということは、デビュー前に作られたという
「1974」のデモテープは、2種類存在するということなのか?
その他諸々、あんなことこんなこと…
考え始めると際限なく疑問が湧いてくる。
ここまでお読みいただけば、ミツカワの感じている
飢餓感 が分かっていただけただろう。
TM NETWORK の創成期 ~ デビュー、
さらに言えば小室哲哉の音楽遍歴を語るときに、
非常に重要な Piece が欠けたままなのだ。
非常に重要な Piece が欠けたままなのだ。
しかし30周年も終わりが見えてきた中、
このメモリアルイヤーを逃してしまえば、
このメモリアルイヤーを逃してしまえば、
小泉氏の話が聞けるチャンスは二度と訪れないのではないかという、
不安感・焦燥感が日に日に大きくなってきている。
ここまで表に現れないという事は、そこに何かしらの事情があると言う事は推測できる。
だが、特に技術革新の著しい80年代初頭にデビューし、
30年も続いたプロジェクトと考えると、
TM NETWORK という単独のグループにとどまらず、
日本のポップス史、あるいは録音技術史という観点からも、
いわゆる つくられた『ストーリー』ではなく、
その実態を記録しておくべきではないのだろうか?
その実態を記録しておくべきではないのだろうか?
というわけで、思わず肩に力が入った文章になってしまいましたが、
TM NETWORK 30周年ということでミツカワ、
この件に限り、一線を超える ことを決意しました。
発表いたします。
この年末年始、重箱Blogでは『TM NETWORK 30周年特別企画』として
ミツカワによる
ミツカワによる
『小泉洋氏・対面インタビュー』を
お届けすることになりました!!
ミツカワの知る限り、おそらく史上初の小泉氏の肉声となります。(違ったらごめんね)
前編は年末、帰省ラッシュの頃にエントリー予定!
キーワードは『たこ焼き(?!)』です。
どうぞお楽しみに!!