2014年12月30日火曜日

祝!30th【小泉洋氏インタビュー / その1】- あとがきと補足

こちらは【小泉洋氏インタビュー / その1】の補足説明となります。
まずはインタビュー本文から御読み下さい。


【小泉洋氏インタビュー / その1】
  いかがだったでしょうか。


今まで耳にしてきたTMメンバーの昔話。
実はその傍らにちょくちょく小泉氏がいたということが、お分かり頂けたと思います。


また夢を追う4人の若者が、かなり土俵際に追い詰められていた、
ということも生々しく伝わってきました。

近年のインタビューで小室氏が、「あの頃、木根さんは(自分がリーダーだった
スピード・ウェイが行き詰まって)弱っていた」と答えていました。

華々しいデビュー時のビジュアルの裏側で、泥臭い、汗臭い若者たちの悪戦苦闘があった、
というのは、次回以降の内容をみるときも頭の片隅にとどめておくべきでしょう。







良い音楽を作る! ただそれだけ。


今まで我々は、小泉氏の肩書を
『コンピュータープログラマー・シンセサイザーオペレーター』
と一括りに捉えてきましたが、
ご本人によると、デビューまでの経歴はあくまでギタリストであり
コンピューターは多少、それまでの積み重ねがあったものの、
シンセサイザーのオペレートに関しては、ほとんどアマチュア同然だったとのこと!

そこから20年以上のキャリアが始まり、数々のヒット曲に関わるようになるのですから、
人生とは分らないものです。

そもそも自分のやっていることが "コンピュータープログラマー" だとか
"シンセサイザーオペレーター" という名の職業だとは、後になって知った話だそう。
この件に関しては、また別の側面も見え隠れするのですが、それはまた次回以降に。


また、御本人としては TM NETWORK での活動に関して、
そのような(コンピュータープログラマー・シンセサイザーオペレーター)意識では
参加されてなかったとのこと。

小泉さんいわく
「だからメロディーだろうと歌詞だろうと口を出してたよ。
 あくまで "4人で良い音楽を作る!" ただそれだけに集中していた」そうで、
メンバーもそれが当たり前と受け止めていたことは、前回のエントリーからも伺えます。







♫「1974」のデモテープについて


インタビュー中にもチラっと出てきましたが、
この件に関して小泉氏の記憶ははっきりしており、
これは次回詳しくふれる内容とも完全にリンクしていることから、
打ち込みバージョンのデモが存在したのは間違いないようです。


しかし一方で、木根尚登氏の「電気じかけの予言者たち」に書かれている、
TR−808・KORG Polysix・アコースティックギターだけで作ったという
デモテープについても、その使用機材について宇都宮氏が
「そんな大事なデモテープを、こんな少ない機材で作って大丈夫なの?」
と不安を漏らしたとされていて、この発言は非常に真実味があります。



ということは、やはり、
「1974」のデモテープは2種類存在していた、という事のようです。



考えられるケースとしては
・各レコード会社にばらまいたものと、
 フレッシュサウンズコンテストに送ったものは別であった。
・小室氏の作ったデモテープを下敷きにして、小泉氏によるデモが作られた。
・コンテスト終了後に、プレ・レコーディングとして
 試験的に打ち込みサウンドのテープを作った。
などが、あげられます。

小泉氏御本人は、小室氏版デモテープについては憶えがないそうで、
この辺の事情については分らないとのこと。
これに関しては、今後の究明が待たれるところです。









♫ 当時の時代背景


80年代初頭の日本では、パソコンは “マイコン“ と呼ばれ、
『マイコン・ブーム』が巻き起こっていました。
NHKの教育TVで『マイコン入門』が放送され、
TVや雑誌にアイドルや俳優を使った広告がバンバン打たれていた時代。

ミツカワの記憶では、駅前のカルチャーセンターなどで一般サラリーマンに向けた
『趣味のBASIC(パソコン言語の一つ)講座』なんてモノも行なわれていました。


今回お話を伺って感じたのは、小泉氏、そしてもちろん小室氏の嗜好を考えると、
1983年「1974」のピコピコサウンド、ひいては TM NETWORK デビュー時の方向を決める上で
影響を与えたのは、YMO によるテクノブームなどの ”音楽的なもの” よりも、
この当時の『マイコン・ブーム』が内包していた
"見え始めた新しい未来” 感ではないか、ということです。


なおインタビュー中では ”戦略” と言う言葉で表現されていますが、それに加え、
「もちろん戦略というだけでなく、単純に “面白い” という気持ちもあったよ!
 哲ちゃんもすごく頭が柔らかくって、新しいもの、変わったものはパッと興味を示すし」
とも、おっしゃられていました。









♫ コンピューターとパソコン世界初


前回のエントリーでミツカワは、
コンピューターを使ったライブなど、当時すでに散々行われていたのに、
いまさら何が『世界初』なのか、分らないと書きました。

この件に関しては直接お話を伺ったわけでは無いのですが、
小泉氏との話が始まってから、すぐに気づきました。


混乱が生じた原因は『コンピューター』という言葉の定義にあったのです。


我々は日常、コンピューターという言葉から “パソコン” をイメージしますが、
本来、パソコンとは “パーソナルコンピュータ” の略であり、
コンピューターの中の一種類にすぎないわけです。

音楽の場合、コンピューターと言ってもいわゆるパソコンの他に、
音楽専用のコンピューター、つまりシーケンサー専用機(注)があります。
(注・変な呼び方だが、多用途に使えるパソコンとの違いを強調するため今回はこう呼ぶ



たしかに “コンピューターを使った音楽” として一世を風靡した YMO も、
1983年 “散開” までのレコーディングやライブで、パソコンは使われていません。
使われていたのはシーケンサー専用機 Roland MC-8(のちにMC-4)です。






















ミツカワの記憶でも、YMOのライブで視覚的なインパクトがあったのは
コンピューターではなく、中央にそびえ立つ MOOG などのモジュラーシンセでした。
当時小学生だったミツカワは、それこそがコンピューターだと思い込んでいました。

しかし実際は、山のような機材群の中にちょこんと置かれた、
スーパーのレジの様なものがコンピューターだったのです。

つまり、サウンドとしてのインパクトはコンピューターが担いつつも
見た目のインパクトはモジュラーシンセ、という分業(?)状態だったわけです。


















これに対し、小泉・小室両氏が画策したのは、
シーケンサー専用機ではなく、パソコンそのものを
レコーディングやライブで使うということでした。


ただ、視覚上の演出も伴うライブはともかく、
レコーディングまでパソコンをわざわざ使う意味はあるのだろうか?
という疑問も湧きます。

シーケンサー専用機だろうとパソコンだろうと、ピコピコさえしていれば、
使用機材は聴く側にとっては関係ないからです。

実際にはそれぞれ、電圧制御・MIDI制御と違いがあり、
それによって使える機材も異なりますが、1983年の状況を考えれば、
枯れた技術であるシーケンサー専用機を使った方が、はるかに『安全』です。



それなのに、次回述べるような困難を乗り越えてまで、
あえてパソコンを使ってレコーディングに挑んだのは、
先に述べたようなパソコンを取り巻く時代の空気が、
本人たちをかき立てたからではないかと考えられます。

ちなみに小泉氏との会話でも、パソコンを使ったことに関して、
何度も『プライド』や『矜持』といった言葉が使われていたことが印象的でした。



事実、デビューライブから1988年8月の東京ドーム公演「STARCAMP TOKYO」まで
TM のライブでは常にパソコンが目立つ位置に設置されていました。

実際には1987年3月スタートの「FANKS! BANG THE GONG TOUR」からは、
安定性を考慮して、シーケンサー専用機が使われていたのですが、
その後も ”見せパソコン” が置かれていたことは、
小室氏自身が『パソコン=TMのアイデンティティ』と捉えていた名残でしょう。




しかし、この ”コンピューターを前に打ち出す“ と言う戦略が、
皮肉にもその後のボタンの掛け違い(注・ミツカワの印象です)
原因になっていくことになります。
この件はまたいずれ。









♫ MIDI規格の成立


ただ、この戦略が成立する為には、
パソコンとシンセ等を繋いで、データをやりとりする規格の存在が必要です。
それまでの音楽用のコンピューター=シーケンサー専用機は、音楽専用というだけあって、
“楽器” として作られていましたが、パソコンは楽器ではないからです。


そこに登場したのが MIDI規格 です。


MIDI規格は1982年の秋に発表され、
年明けの1983年初頭からMIDI端子を備えた製品が各社から発売されはじめました。

パソコンと対応楽器間でMIDI信号を送受信するための
『MIDIインターフェイス』の発売も、この1983年です。
小泉氏の言われた ”タイミング” の意味がお分かりいただけたかと思います。

この辺りの事情は以前、当・重箱Blogでも
YMO と TM NETWORK 間の断絶として、とりあげました。






ここまでをミツカワなりにまとめると、次のようになります。

 ・YMO のヒットにより、打ち込み音が一般に受け入れられるとの確信はあった。
 ・当時『マイコン・ブーム』により、パソコンが注目を浴びつつあった。
 ・TM NETWORK 結成の1983年、ちょうどその
  (コンピューターではなく)パソコンを音楽に使える状況が整った。

そしてこれに加えパソコンの持つ ”未来感” が、SF好きの2人の心を揺さぶっていた、
ということも大きいでしょう。
(当時、小泉氏の PC-8801mkⅡは ”ハリー” という名前が付けられていた。
 ネタ元はもちろん『2001年宇宙の旅』の ”HAL 9000”)

みなさん、どうですか?
当時、小泉氏が購入したばかりの NEC PC-8801mkⅡを前に、
熱く語り合う二人の姿が見えてきませんか?








しかし、この計画には大きな落とし穴がありました。
たったひとつ、タイミングの合わないものがあったのです。
そしてその克服こそが、彼らの言う『世界初』の自負へと繋がっていきます。


新年を迎えて送る小泉氏インタビュー第二弾は、このお話から。


フレッシュサウンズコンテストにサポートとして参加した小泉さんに、
TM NETWORK デビューに向け、いよいよ正式な協力要請が。
しかしそこには身も凍るような恐怖体験が待ち構えていた!

次回『魔の3日間 / TM NETWORK は初めから "QUIT” だった!!』


乞うご期待。













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   [ ここだけ『重箱のスミ!』~懺悔の巻~ ]






さてインタビュー部分を読むと、まるで理路整然とお話を伺ったように見えますが、
もちろんミツカワにそんな芸当が出来るはずもありません。

実際はお邪魔していた6時間中、半分近くは小泉氏と
雑談&たこ焼き喰ってるだけでした!
目の前に、あの、あの小泉洋がいるというのに!!

帰宅してから当日の録音を聴き直しても、
ミツカワの頬張る音+「うま~い!」とか「(小声で)熱っ」とかが
延々、記録されている始末…orz


…ごめん、みんな…。
うまかったんや…ほんまにたこ焼きがうまかったんや…。

というわけで 当日の真実の姿、その一端をここに記します。






エプロン姿でキッチンに立ち、黙々とミツカワのためのたこ焼きを焼き続ける小泉氏。
それをテーブルに座り、次から次へと頬張るミツカワ。
壁越しに行われる会話…。


以下、たこ焼き情報。

  ・味は醤油ベース。ソースやマヨネーズなどは一切つけない。
  ・子供の頃、お母さんの作られているのをみて覚えた。
  ・お母さんの御実家は大阪の吹田だそう。
  ・焼き器はテフロンではなく鉄製。
  ・このたこ焼きを求めて、ちょくちょく後輩たち仲間が屯しにくる。





      「俺、なんでも作るけどさぁ、でもこのたこ焼きが
       俺にとっての 一番のおもてなし なんだよね」





いくらミツカワが厚かましい男だとはいえ、
この状況には、さすがにいたたまれなくなりました。
しかし壁越しに「小泉さんも一緒に食べましょうよ」と呼びかけても、
「いいよ。俺は次々焼いていくからさ、どんどん食べちゃってよ」と涼しい返事。

このやりとりも3度目となると、ついにミツカワ、
いたたまれなさを通り越し、逆ギレ!
キッチンに乗り込みます。




『小泉さん!
 もし今ここにブライアン・メイが現れて、
 小泉さんに「たこ焼きを焼いてやる」って
 言い出したらどうします?』




その瞬間、小泉氏の背中がピクッとしたかと思うと、首だけをゆっくりとこちらに向け一言。

「…それ、すげえなぁ」妙にニヤつく小泉氏。

「ブライアン・メイが目の前でギターを弾いてくれるっていうんならまだしも
 手料理振る舞ってくれるなんて、そんな経験そうそう無いよなっ!」

「でしょ?僕にとって、今のこの状況はまさにそれなんですよ!」






「へー。それはありがたいね」
 再び淡々と答える小泉氏。





「…。」
「…。」





「おし!次、焼けたよ!」
「あ、ありがとうございます」

言いたいことを言ったらスッキリして、おとなしくテーブルに戻り、
焼き上がったたこ焼きを再び食べ始めるミツカワ。

何事もなかったかのように、たこ焼き器に次の生地を流し込む小泉氏。

結局16穴のたこ焼き器3枚分+αで、ざっとたこ焼き50個はたいらげたミツカワ…。








          だめじゃん!























これが小泉氏謹製、醤油ベースのたこ焼きだ!
ちなみにこの時点で、ミツカワはすでに二皿(16個×2皿=32個)たいらげていたぞ!!



小泉さん、ほんとうに御馳走様でした。
たこ焼き、たいへんおいしうございましたよ。









                 ううう…orz









祝!30th【小泉洋氏インタビュー / その1】☆ 1974 〜 Sixteen あの頃の気持ち



ミツカワです。

さて予告通り、今回このBlogは
「TM NETWORK の重箱のスミ!」ではありません。

                    です!

いつもとは体裁が異なりますことを御了承下さい。



これから3回に渡って御送りする【小泉洋氏インタビュー】
今回は第1回ということで、前置きが長くなりますが、
重要な注意事項を含みますので、必ず目を通してください

まだ前回のエントリーを読まれていない方は、
より理解を深める為、是非そちらから御覧ください。







さて、本題に入る前に
前回のエントリー以降、皆様から寄せていただいた御意見を拝見していると、
TM NETWORK ファンの方には、その後の小泉氏の活躍を御存じない方が多い様ですので、
僭越ではありますが、氏の簡単な経歴をまとめさせていただきました。

シンセサイザーや、80年代のPOPS,ROCKに興味がある方でしたら、
あの「ハンマー」のメンバーだったというだけで、伝わるものがあるはずです。





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【小泉洋】

1984年 TM NETWORK のコンピュータープログラマー・
シンセサイザーオペレーターとして、プロのキャリアをスタート。

85年、ムーンライダース・オフィスに所属し、森達彦氏率いるプログラマー集団
「ハンマー」のメンバーとして、数多くのレコーディングに参加。

90年代以降はサウンドプロデューサーとして、活躍の場を広げる。


参加した曲は約2500曲。
ただし職業柄クレジットされていないことも多いため、実際の参加曲数は不明。

  【主な参加アーティスト】
  ・大江千里・KUWATA BAND・ネバーランド・LOOK・徳永英明
  ・STARDUST REVUE ・FENCE OF DEFENSE・ARB・五木ひろし
  ・辻仁成・KAN・中西圭三・南野陽子/その他アイドル多数

  ・こんな人をプロデュースも(!)









さらに90年代終盤からは「FIELDS」~「Smart Drug」で
ギタリスト&コンポーザー “HIROSHI” としても活動。





















ちなみにミツカワ、この辺まではわりとリアルタイムでおさえていたつもりだったのですが、
当日のお話で「90年代は小林信吾氏と親交が深かった」と伺い
帰宅後、慌てて自分の所有していた小林信吾氏のソロアルバムを確認。

確かに『GENERAL PRODUCER : HIROSHI KOIZUMI』とクレジットされていました!





















その他、多くのヒット曲に関わられており、
皆さん、実は知らないうちに小泉氏の作った音に囲まれていたはずです。








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はじめに


11月初旬、ミツカワは都内にある
小泉氏所有のマンションにお邪魔することになりました。

最初はどこかの駅で待ち合わせ、近くの喫茶店でお話しを伺う、
という腹づもりだったのですが、小泉さんからは意外な提案が…

『だったらウチにおいでよ。自慢のたこ焼きを食べさせてあげるよ!』

さあ大変、この瞬間
  ・たこ焼き → 食べられる
  ・TM NETWORK → 食べられない
よって、たこ焼き = WIN

と、頭の半分はたこ焼きに乗っ取られてしまうミツカワの思考回路の闇のラビリンスぶり!





         …最初に謝っちゃうよ…ごめんね、みんな…。
       これが、おふざけで書いているのではないことは最後に…。





さて前回書いたように、氏には、
  ・コンピュータープログラマー・シンセサイザーオペレーターとしての小泉洋
  ・小室哲哉の旧友であり、音楽仲間であった小泉洋
という、ふたつの側面があります。
限られた時間(とはいえ6時間も居座りましたが)で、いきなり全てを伺うことは不可能です。

そこで今回は『古い音楽仲間としての小泉氏』に的を絞ることとしました。
というのは、前エントリーで書いたように、
そここそが数多い他のサポートメンバーと小泉氏との、大きな違いだと考えるからです。


さらにその前に、今までほとんど表に出ていない、
小泉氏自身の来歴などから、まずはお伺いするべきと判断いたしました。
やはり、物事には順序があると思う故です。

特に「そもそもギタリストだった小泉氏が、
なぜコンピューターやシンセサイザーを担当することになったのか?」
というのは、長年ミツカワが気になっていた点です。






さて、指定された駅の改札に予定時刻の10分前に到着したミツカワ。
わざわざ小泉氏が迎えにきてくださるとのことで、
たこ焼きが…いや、ワクワクが止まりません。

とはいえ、ミツカワの知るそのお姿は30年も前。
しかも正面からはっきりと写っている画像などは、数える程しか残っていません。

はたして迎えに来ていただいても、すぐに判るのかどうか。
いや、既に横に立っているこの人が実はそうなのでは…?
疑心暗鬼に落ち入りかけたそのとき。


「初めまして、小泉です!」


ミツカワの不安は一言で吹き飛びました。
「写真は勘弁してよ(笑)」とのことで、控えさせていただきますが、
現われるなりハツラツと手を差し出された、そのちょっとはにかんだような(失礼!)
表情は、まるっきり下の画像のまま!


あ、この人だ!
30年の時を一瞬にして飛び越え、あの小泉洋氏が現れました。
ではいよいよ小泉洋氏、初の生声を御送りいたします!
































と、そのまえに…







読者の方へのお願い


小泉氏は最初のコンタクトの段階から
『当時のことは、もうあんまり憶えてないんだよね。期待にそえるかどうか…』
と、気にされていらっしゃいました。

そこで当日、インタビューに入る前に記録用の録音許可をいただくとともに、
こちらのスタンスを説明させていただきました。

  ・メンバーを含め、誰かの発言をそのまま鵜呑みにするつもりはない。
  ・よって今回の話だけをもって、事実・結論・正解とは考えない。
  ・しかし一人一人はバラバラであやふな記憶でも、
   別の側面からの情報が出ることによって、多角的な検証が可能になると考える。



そのうえで、こちらとしては御会い出来ただけで光栄です。
30年も前のことなので、記憶が曖昧なのは当然ですから、
どうぞ気楽に昔話のつもりでお話し下さい、と申し上げました。

実際にお話を伺って、小泉氏の記憶に非常にムラがあったのは事実です。

しかし、小泉さんもその点は御配慮下さったようで、
分らない・憶えてないことは否定も肯定も断定せず、
率直に「憶えてない」と答えてくださりました。

よってこれは言葉通り『憶えていない』ということであり、
否定でも肯定でもない、という点には御注意下さい。




    余談ではあるが、先日放送されたラジオ
    「TM NETWORK プロデュース SUPER EDITION」での発言を聞いても、
    "フレッシュサウンズコンテスト決勝戦での鉢巻き&ギター” や、
    "よみうりランドから衛星中継” など、
    現在のメンバー自身も、記憶があやふやになっていることがわかる。

    また木根尚登氏が20年前に書いた「電気じかけの予言者たち」ですら、
    意図的かそうでないかはともかく、事実とは違う点が散見される。
    これに関しては初版の帯に書かれているように
    『TM NETWORK “ストーリー”』として捉えるべきだろう。




また、御自身が離れて以降の TM NETWORK の活動はほとんど御存じなく、
お宅に伺った2014年11月現在、30周年のツアー中であることも、
ミツカワを通じて初めて御知りになったような現状でした。

よって当インタビュー中のいかなる発言も、他のメンバー・スタッフの発言に対する
リアクションではないということも御了承下さい。



この小泉氏インタビューは、今回から
  ・デビュー以前
  ・1984年
  ・1985年
と時期に区切り、3回に分けて御送りする予定ですが、
発言自体は小泉氏のものでも、それを切り取って再構成した時点で、
全ての責任はミツカワにあります。

問題、ご意見等ございましたら、
コメント欄、あるいはTwitterのDMからミツカワにお寄せ下さい。











         では、大変お待たせいたしました。
         本邦初!【小泉洋氏インタビュー】スタートです。
         (文中の注釈はミツカワが付け加えたものです)








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♫ 林檎かじって (1) 〜Let It Be


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ コンピュータや、TM 云々はさておき、
     まずは本来の ”ギタリスト・小泉洋” としての、話をお聞かせ願えますか。
◯ 中学入ってバンド組んでたのね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちなみに当時、憧れたのは?
◯ The Beatles だろうね。(即答)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ リアルタイムですよね。
◯ うん、そう。
「Let It Be」(シングル)が出た時に買ってるから、それが小学校5年の3学期かな。
そう、一番最初に買ったレコード…というか買ってもらったんだろうね。
それが現役での「Let It Be」
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 小学生が、どういうきっかけで The Beatles を?
◯ 多摩の小学校から…
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ さっき、生まれは幡ヶ谷と伺いましたが…
◯ 小学校5年の3学期で多摩市桜ヶ丘に引越して「多摩第二小学校」て所に入ったの。
でその時、本当は兄貴の為に頼んでた家庭教師を、
俺が(早稲田実業学校・中等部を)受験するからって取っちゃたんだよ。

その家庭教師…大学生だよね…がビートルマニアでさ、
黒のタートルネック着て、みたいな…分かるよね?
今じゃ普通だけど、当時としては斬新なオシャレというかカッコイイお兄ちゃん!みたいな。
その人が(レコードを)色々貸してくれて、聴いてたのが初めかな。
「Strawberry Fields Forever」とか、子供心に幻想的っていうか世界に入っちゃってさ。
凄くいいなぁって。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ でも、小学校でそういうの聴いてる子って周りにもいたんですか?
◯ いなかったよね。変わってたとは思うよ、そういう意味で。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ じゃあ、音楽の仲間というのは中学に入ってから?
◯ うん。その頃、中等部で俺が組んでたバンド仲間は名前を言えば小室も知ってると思うよ。Bassの遠藤君とか…(笑)
あいつ(小室氏)は高校から入ってきたけど、ウチは中高一貫だったから。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ しかし当時、中学そこそこでエレキギター持ってるって他にいないですよね?
◯ そうでもないよ!そこはちょっと言い方悪いけれど、うちは私立でしょ。
実業家の息子さんが多いので、だからそこそこの小金持ちみたいな。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ、なるほど。でも、そうなると今度はバンド組もうとすると、
     花形のギターの座は取り合いだと思うんですが…。
◯ そこはもう、小学校の頃から弾いてたっていうアドバンテージがあったからさ、
子供は子供なりにね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(部屋の隅に立てかけてあるガットギターを見つけて)小学校の時はガットですか?
◯ うん、そう。それで中2の頃にエレキを買ってもらったのかな?
で、高校あがって小室と…
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ え?もう、そうなるんですか? 僕としてはもっと後に来る話だと思っていたのが、
     いきなり来ちゃったんですけど(笑)









♫ タイムマシンにおねがい 〜小室哲哉との出会い


◯ あいつは高校から商科に入ってきてね、
高校入学式の日にパッと見て「あ、こいつ何かある」と思って声かけたの。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ え?小泉さんの方から声をかけたんですか?!
◯ うん、「何かやってる?」って。
「音楽とかやってる? やってるだろ?」って言って。
そしたら、こうこうでキーボードでやってるって。
サディスティック・ミカ・バンドが好きだって…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ えええ?!
◯ そんな話しして、でそのまま小室の家に行ったんだよ、
その日のうちに。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ えええ?!
◯ それであいつの家でエレクトーンで…あいつまだシンセとか買えないからね、
ミカバンドの「タイムマシンにおねがい」なんかを弾いて
「うわー弾けるじゃん!何かやろうぜ一緒に」って話してたんだよ。入学式の日にもう!
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 話が早い…。でも、高校の入学式って事は、
     小室さん、別に目立つ派手な格好をしてたわけじゃないですよね?
◯ うん、雰囲気っていうか、大げさに言うとオーラ?
俺は昔からそういう点では恵まれてるっていうか、
こいつ何かあるなっていう奴と出会うことが多いんだよね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なるほど。
で、それからもう哲っちゃんとは腐れ縁だよね(笑)
高校・大学時分はあいつもよく言ってたけど、
「洋ちゃんさぁ。絶対、家族といる時間よりも洋ちゃんといる時間の方が長いよね」って。
ていうのも高校・大学の頃は週の内、
半分はどちらかの家に泊まってるような状態だったもの(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ えええ?!
◯ もうお互いの家なんて車なら5分の距離だからね。
だから「洋ちゃん、ギター持ってこれから来ない?」て電話が来て、
お母さんとかも、もう顔見知り。
それでギターを担いで小室の部屋…中二階に小室の部屋があったんだけど、
そこでセッション!
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ え?音を出して?
◯ 出てる出てる。小さいアンプ使って。
小室も大学時分にはシンセ、何かあったんだと思うんだよポリフォニックの安いのとか。
で、哲っちゃんが「こんな曲作ったんだ」って言って、
「洋ちゃん、ギターあててみてよ」なんてことやってたよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 音出てるんですよね?
◯ 小っちゃくね。親もいるし、木造だから。
ただ、あいつの家は南武線の線路沿いにあったから、
それなりの造りはしてるし、電車通ったらそれどころじゃないし(大笑い)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ (笑)一緒にコンサートに行くなんてこともありましたか?
◯ そういや Queen のLIVEに行ったなあ、哲っちゃんと。
行ったっていうかバイト(物販)したんだね。小室に紹介されて。
あいつ、そういうところ行動的だから
「こういう仕事あるんだけれど、ただで観れるよ」って。
まぁ実際は観れないけどね、そんなに。こっちは仕事してるわけだから。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ でも物販だったら本番が始まったら少しは手が空くんじゃないですか?
◯ あ、まあね。だから哲っちゃんとちょっと覗きに行ってさ。
それ見て二人で「俺たちも頑張ろうね」とか話したよ。


 (注)この物販エピソードは小室氏本人も1990年「Digitalian tour」のMCで
    語ったことがある。小泉氏もその場で一緒だったわけだ。









STAY 〜And sing one more song...


◯ 実は18歳の時、一度2人でデビューしてるんだよ。
哲っちゃんキーボードで、俺はギターで、ギズモってバンドだったんだけど…
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ え?ちょっと待ってください。
     ギズモって、小泉さんも参加されてたんですか?!
◯ うん、ギズモの初代ギタリストは俺だよ。
ただプロデューサーの人が、もともと別のギタリストに目をつけてたみたいなんだな。
それですぐ外されちゃって、その時は哲っちゃんが
「洋ちゃんごめんね、どうしても別の人使わなきゃいけないみたいなんだよ…」
って、泣きながら電話してきてくれたの憶えてるよ。

ただその後、ギズモは有名になったわけじゃないから、うまくいかなかったんだろうね。
そこから哲っちゃんはスピード・ウェイに流れていったんだと思う。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そしてスピード・ウェイの後、小室さんはさらに STAY を結成され…
◯ あ!STAYの頃、まだギター弾いてたよ俺。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ えええ?! STAY も参加されてたんですか?!
◯ うん。要は当時、哲っちゃんが Jackson Browne が好きで「Stay」って曲あったじゃない?
♫~ People stay just a little bit longer ~ っていう、あれから名前とったんだよね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ「STAY」って、そこからきてるんですか!
◯ うん、だから俺が弾いてた最初の頃のライブは、
いつも〆にあの曲やって終わってたんだよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 小泉さんは STAY を抜けたあとも、別のバンドを?
◯ 俺も記憶は定かじゃないんだけど、自分は自分でバンドをやってたんだと思うんだ。
プロ目指してね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それはあくまでギターですよね?
◯ うん、そうそう。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちなみに小泉さんがそのころ組んでいらしたバンドはどういう音だったんですか?
◯ ロックギターだったよ。ツェッペリン好きだったし、グラムロック好きだったし…。
自分で言うのもなんだけど、バカウマだったよ(笑)
Van Halen の「Eruption」なんて平気で笑いながら弾いてたもん。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ へ~。もう完全にバリバリのギタリストじゃないですか(笑)


 (注)ここで小泉氏の音楽的趣向も伺ったのですが、
    ここでは一切合切、すべてバッサリとカットさせていただきます。
    何故なら、小室氏のソレと『完全に一致』だから(笑)

    そこで「あえてココは小室さんとは違う、てところはありますか?」
    とお尋ねしたのですが、小泉氏は腕を組みしばしウ~ンと唸った後、
    一言「無い!」とのことでした。
    あえて言えば、御本人がギタリストということで
    憧れていたのはジミーペイジとのこと。
    ただそれも「ギターというより、まずは曲だよね」とのことでした。









♫ 林檎かじって (2) 〜Hello World.


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ さて、そんなバリバリのギタリストだったのに
     それがいつ、どうして、コンピューターになったんですか?
     そもそもコンピューターは音楽の興味で? それとも全然別で?
◯ ああ、全然別で AppleⅡ(注)てのがあったよね?。
それを大学時分、バイトかなんかして買ったんだよね。たぶん凄く高かったと思うんだけど。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ということは、もうそういうテクノロジーには興味があった?
◯ あ、うん。好きだったんだね。テクノロジーというか、そういう先駆的なものが。
それで初めはゲームしたりもしてたんだけど、結局いろいろやってるうちに、
AlphaSyntauri(注)っていうのが、パソコンを使ったシンセになるらしいとか
創成期だからいろんな情報や試行錯誤があった時代なのよ。



 (注)Apple II
    Apple Computer(現・Apple)が発表した “パーソナル” コンピュータ=パソコン。
    1977年に発売され、大ヒットとなった。
    拡張ボードスロットを備え、仕様が公開されていたため、
    各社から様々な拡張ボードが発売された。

    ちなみに現在まで続く Macintosh(Mac)は TM と同じ1984年のデビュー。



 (注)AlphaSyntauri(アルファシンタウリ)
    Apple II 用の、音源拡張ボード・専用の鍵盤・音楽製作用ソフトウェア
    などがパッケージになったミュージック・システム。Syntauri社が1980年に発売。

    ただしこの時代のものは、のちに TM などで使われる、
    パソコンから外部の機材(シンセなど)を鳴らすシステムではなく、
    あくまでコンピューター自身を鳴らす、コンピューター内で完結したシステム。










で、最初はそれでなにか出来ないかなと思ってた。

ちょうどその頃、まぁプロになるミュージシャンってみんなそうだと思うけど、
努力家が多いので、俺もギターはやってたけど、
それとは別にエレクトーンやピアノを習いに行ってたのよ。
まぁ、いろいろ弾けた方がいいじゃない?アレンジするにしても。
だから、ギターがメインだけどキーボードも弾けるわけ。
というわけでシンセサイザーも持ってたんだな。ポリフォニックのヤツを。
だからコンピューターを音楽に使えたらって言う興味はそこら辺からかな。

…でも確かに言われてみると、なんでそれが TM と結びついていったのか…謎だなぁ…。
俺が言ったのか?… それとも哲っちゃんが
「洋ちゃん、こういうこと出来ない?」って聞いてきたのか?…
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あのですね、当時のインタビューで小室さんがコンピューターと出会ったのは
     TM結成頃だったって言ってるんですが…。
◯ ああ、それは結局(音楽制作に)まともに使えるようになったのはその頃だからね。
哲っちゃんは別にコンピューターオタクじゃないから、
要するに(音楽に)使えるか使えないかだけだから、
そういう意味ではコンピューターとの付き合いはそこからだろうね、彼は。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ では小泉さん自身はパソコンを音楽に使うということを、もう常に探っていたと?
◯ やってたんだろうね。いろいろ遊んだり、それで曲作ったりしてたんだと思うけど、
ただ、1つの完成形としてちゃんと使おうとしたのは「1974」のデモテープ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ というのは?
◯ 結局は全てのタイミングがあの時期(1983年 春~夏)にピタッと合ったんだよ。
だって、たとえ俺がいても MIDI規格(1983年、対応機種発売開始)が出てなかったら、
あるいは PC-8801mkⅡ(1983年発売)を俺が買ってなかったら、
シンセとパソコンをつなぐインターフェース(MPU-401・1983年発売)が出てなかったら、
あるいは哲っちゃんがそういうものに興味を示さなかったら…。

つまり半年ズレてただけでも、ああいうことにはならなかったんだよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なるほど。誰かが仕掛けたと言うより、その瞬間に全てのピントがあったのが、
     その音だったっていうことですね。
◯ ひょっとしたら、哲っちゃんの中にはプロデュース的な意味合いでそういう音っていうのがあったのかもしれないけどね。ただ、それがそれこそ「世界初!」(注)みたいに戦略として成立したのは、あの時期だったからっていうのはあると思うよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ でも、その戦略が成立するには小泉さんと言う存在が必要だった、
     ということも確かですよね?
◯ 要はスピード・ウェイが東芝EMIでうまくいかなくなって、
でも、キネやウツと一緒にプロ目指して頑張ってた小室と、
全然別のところでコンピューターとかの技術を磨いてた俺がいて、
そこに接点が生まれたわけだよ。
で、「1974」でもう一回デビューできるかもしれないってなった時、
小室が「洋ちゃん、力貸してくんない?」ってなったわけ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あれ?小泉さんは STAY を離れられた後、そこからしばらくは接点なかったんですか?
◯ いやもう、くっついたり離れたりくっついたり離れたりして憶えてないよ(大笑い)
ただ、お互いの今の状況みたいな話はよくしてたよね。仲良かったしね。



 (注)「世界初!」
    これに関しては補足の ♫ コンピューターとパソコンと世界初 以降をお読み下さい









♫ Stop Stop Thinkin' 時を忘れて エイリアンたちとの夜


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちょっと話がズレますが、宇都宮さんや木根さんとは、
     いつごろ初めてお会いになったんですか?
◯ 哲っちゃんの紹介で…スピード・ウェイが終わった後だから…24歳とか?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ TMの直前?
◯ そう、TMの直前。で、すかいらーくで毎夜会うようになって…
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あ、その話よく聞きますが、小泉さんもご一緒だったんですね(笑)
◯ で、キネもウツも気がいい奴だからさ。ま、1歳上なんだけどね(笑)
なんか小室との関係だとか、俺が(音楽的に)大事なところを押さえてるってこともあって、
メンバー内では俺の方が歳上のような感じになっちゃってたよ(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 当時のインタビューでも「小泉には絶対的な権力があった」と仰ってましたよ(笑)
(笑)ウツなんかはひょうひょうとしてるし、
キネなんかは「(猫なで声で)あのぉ小泉さぁ」みたいになっちゃって、
「木根さん」って呼んだことないんじゃないかな、最初の1~2回しか(大笑い)
すぐに「キネッ」ってなっちゃって…うん、とにかく仲良くなったんだよね。









♫ 心にあつく Flash In The Dark Sixteen あの頃の気持ち〜


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なるほど(笑)話は戻りますが、当時世界の流れとは別にあくまで国内の話ですが、
     ちょうど YMO が散会したところで、いわゆるピコピコ的な音はもう古い、
    というような流れになってきていましたよね。
◯ そうだね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ その中であの「1974」のようなピコピコっていうのは、
     どうゆう意図というか考えだったんでしょうか?
◯ いや、意図というよりも、コレがダメならアレ!アレがダメならコレ!ってことを、
何度も何度もやってきて、あの「1974」が SONY にひっかかった時点で
『もう、それしかなかった』んだよ。

哲っちゃんも…みんなそうだけど、非常にハングリーだったのよ。

夢というか目的地がはっきりしていたしね。
当時、俺たちが付き合ってたミュージシャンも、
みんな本気でプロを目指していた奴らばっかりだったし。
でも、みんな挫折していったんだよね、大学出た頃で。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ、その時期か…。最近、小室さんがおっしゃってたんですが、
     一度1981年頃、音楽の道を諦めようかと思ったことがあると。
◯ うん。俺も「あと1年でダメだったらもう諦めろ」って親父に強く言われて、
眠れない日々を過ごして、プロになれたのって『あと3ヶ月』ってとこだったもんね。

哲っちゃんにしてもバックバンドの仕事とかいろいろやってたけど、
じゃあ、それで食っていけるのか?とかね。
もう、みんなその時点で何度も悔し涙流してるんだよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ …。
◯ …ま、とはいえ哲っちゃんにしても俺にしても、
それであきらめるようなタマじゃないけどな。(ニヤッ)

結局、俺と哲っちゃんが気が合ったって言うのは、音楽性もあるけれど、
強い…強固な意志というか、そういう部分で同調していた。
だから、そうなるともう "プロになること" がまず最重要なのよ。

俺の場合だったら、
「洋ちゃんだったら(パソコン)出来ると思うから、やらない?」って言われたら
ひとまずギターを置いてでも『やる!』って言う。とにかく全力で取りに行く!

だから、もし違った形でチャンスがあったとしたら、
哲っちゃんもキーボーディストとしてデビューではなかった可能性もあったと思うよ。
とにかく壁を越えてプロになる。…じゃないと、もう先がない状況だったんだ。

 (注・実際木根氏はデビューにあたってキーボードからギターに “Job Change” している)



そのためには、まず目立たなきゃならない。
いろんな考え方があるだろうけど、俺は哲っちゃんのそういうところ認めてたしね。

だから「1974」にしても、周りの(音楽)状況というよりも、
(パソコンによるレコーディングなど)誰もやっていないことをウリにして…
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 一点突破を図る…と。
◯ そういうこと。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ある意味、とてもシンプルな話ですね。
◯ そうなんだよね。








         【小泉洋氏インタビュー / その1】ここまで








別エントリーとして補足説明を用意させていただきましたので、
引き続き、そちらを御覧ください。

・【小泉洋氏インタビュー / その1】- あとがきと補足


2014年11月29日土曜日

【重大告知】1984年 TM デビュー! ん?そのピコピコはどこから来たの??

ミツカワです。
まずはみなさまにお知らせです。

この年末から年始にかけ、期間限定でこのブログのタイトルが
『TM NETWORK の重箱のスミ!』から
『TM NETWORK の重箱!』へと変わります!



え、お正月だからだろって?


違います。



『重箱』の名にふさわしい、ぎっしりと中身の詰まった 豪華な企画 となるからです。
(まあ、グルーポンおせち事件みたいなことにはならないと思う…思う…思う…)

詳細は後ほど。



今回はその特別企画の前振りとなるエントリーです。
来たるべきお正月企画に向けて、じっくりとご覧ください。











【ミツカワはそれを我慢できない】


ミツカワは不満だった。

今年は TM NETWORK にとってメモリアルイヤーということで、
メンバー自身がデビュー当時のことに触れる機会が多かった。
また、普段ならあまりその声を聞くことが出来ない方々のインタビューも読むことができた。


実はミツカワ、80年代の “旧・TM NETWORK" は
『プロデューサー・小坂洋二氏の作品』として捉えているので
「小室哲哉ぴあ TM編」に載った同氏インタビューは、とても興味深く拝読した。


また「キーボードマガジン」に掲載された、
FANKS期の音作りを担った シンセサイザーオペレーター、
迫田至(現・到)氏のインタビューもなかなか読み応えがあった。





しかし、これだけ一気に情報の渦が押し寄せても、
以前、書いたように相変わらず空白地帯が存在している。





特に初期(デビュー前から)のサポートである、
小泉洋・白田朗、両氏のインタビューが全く行われていない。

また本来なら ”あって当然” すぎて忘れがちではあるが、
久保浩二氏のインタビューもあまり読む機会がない。

個人的には、1987年武道館公演を終えた直後のインタビューで
小室哲哉がその名をあげ「感謝する」と話していた、
ローディーの清野(セイノ)公雄氏の話も、
なかなか興味深いものが出てきそうで聞いてみたいものだ。

ちなみに清野氏は「CAMP FANKS '89」関連の映像を見ていると、
サポートミュージシャンよりも多く(?)写っている。


















折に触れ、自分は熱心なファンではないと言う 謎アピール をするミツカワだが、
その理由をはっきり書いてしまうと
ミツカワは TM NETWORK のファンであっても、
小室哲哉・宇都宮隆・木根尚登、各氏個人のファンではないのだ!

ミツカワが30年来 TM NETWORK を好きだった理由は
『TM NETWORK と言う
(メンバー3人を含めた)スタッフ・ワーク』
がたまらなく好きだったから。


そういう意味で、すでに鬼籍に入られている方は仕方がないとしても、
先に書いたような空白地帯は非常に残念である。






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






しかしミツカワの感じている不満は、そういう個人的な嗜好の話だけではない。
先に挙げた方々の中でもミツカワが特に別格として重要視している人がいる。


この重箱Blogでも何度かとりあげている『小泉洋氏』である。


























【以前の関連エントリー】


【順序は前後しますがこちらもどうぞ】






その理由は、デビュー当時からのファンの方には言うまでもないだろう。

しかしブレイク以降、ましてやTKブームなどの後追いでファンになられた方には、
いまひとつピンとこないと思う。

それは小泉氏本人のインタビューが残っていないということと、
商品化された映像内でもはっきりと写っている場面が少ない、ということがあると思う。

ファーストビデオの「VISION FESTIVAL (journey to saga)」では、
ライブ部分にガッツリ出演しているのに、
ライナーにはクレジットさえされていない



そこで、まずはTMメンバーの発言をご覧いただきたい。










【小泉洋は単なるサポートではない】


ここで参考とするのは、1986年末に発売された
Personal Book『EARTH』に掲載された、
その時点(最新シングル「All-Right All-Night」)での、全曲解説コーナーだ。



関係のある部分のみ抜粋したが、けっこうな長さになってしまった。
本エントリーの中核部分になるので、ご容赦願いたい。
(見づらい場合はクリックしていただけば拡大します)






まずはアルバム「RAINBOW RAINBOW」について。





































































次にアルバム「CHILDHOOD'S END」から


























































いかがだろう。これを読むだけでも
『コンピュータープログラマー・シンセサイザーオペレーター』
という肩書きから受ける印象とは異なり、
初期の曲作り、さらに時には歌詞の作成時(!)にまで関わっていることが分かるだろう。

しかも、スタジオでの作業以外にも、
彼の自宅に TM NETWORK の3人が集まって作業をしていたことが分かる。








       さらに もう一つ、重要なこと がある。







それは、小泉洋は小室哲哉の 高校時代からの友人・同級生 だということだ。

つまり小室哲哉が宇都宮隆、木根尚登と出会う前から、
2人は音楽仲間であり、友人関係だったということだ。

この、メンバーと上下関係、あるいは仕事関係ではなく、
アマチュア時代からの横並び一線の立ち位置だったというのは、
その後の多くのサポートミュージシャンと違う点である。

セミプロ時代からの付き合いという意味では、
白田朗や北島健二などがいるが、
彼らは曲作りの段階から参加しているわけではないし、
アマチュア時代からの近所付き合いというレベルでもない。





端的に言えば、
木根尚登に宇都宮隆がいたように、
小室哲哉には小泉洋がいた、
というような関係だったと思われる。






このメンバーとの関係性と、先に挙げたレコーディングの実態を考え合わせると
この時期の TM NETWORK とは、
小室哲哉+宇都宮隆+木根尚登+小泉洋 の4人組
と言っていい実態だったのではなかったか?

さらにデビュー直後は、木根尚登が影のメンバー扱いだったわけで、
そう考えると、ますます混沌としてくる。



実際、当時のライブで宇都宮隆は小泉洋をこう紹介している。


   宇都宮「えー、こういったライブやレコーディングとかずっともう、
       TMが結成されてから、ずっと手伝ってもらっているんですけど…」

   客席 「小泉さ~ん」

   宇都宮「(苦笑)知ってる人は知っている」

   客席 「(笑)」

   宇都宮「もう、TMの分身と言ってもいいくらいなんだけど…
       コンピュータープログラマー&キーボード・小泉洋!」

               (1985年2月、広島での初コンサートより)








    ミツカワが『小泉洋』にこだわる理由がわかっていただけただろうか?








しかも、よく使われる "4人目のメンバー" などという立ち位置ではなく、
場合によっては
『4人目』どころではなかった 可能性すらうかがえる。



次の項目を見てほしい。










【ん?そのピコピコはどこから来たの??】


TM NETWORK は1984年
シンセサイザーとコンピューターによる打ち込み
を駆使したグループとしてデビューした。

この "シンセサイザーとコンピューター” というパブリックイメージは、
デビューから30周年を迎えた今に至るまで、揺らぐことなく続いている。





だが、しかしである。
その 基本中の基本が ミツカワには であった。





本来、特に小室哲哉がアマチュアからセミプロへの道を歩んだ70年代においては、
シンセサイザーとコンピューターは無関係であった。

シンセサイザーはあくまで
『特殊な音が出る(作れる)鍵盤楽器』(注)に過ぎなかった。
つまりピアノやオルガンと同じである。

  (注)元は『鍵盤』楽器ですらないが、
     ここでは当時、小室哲哉が使っていた機種に限定して『鍵盤楽器』とする。





"シンセサイザーと小室哲哉” に関しては疑問を挟む余地は無い。
大阪万博での出会いや、その後の遍歴など本人の口から何度も語られている。





問題なのは "コンピューターと小室哲哉“ だ。





例えば ”GIZMO” あるいは ”SPEEDWAY” 
そして TM NETWORK 結成直前の ”小室哲哉 and STAY” など、
TM NETWORK デビュー以前の活動からは、
シンセサイザーへの傾倒は感じられても、
コンピューターの打ち込み音は微塵にも感じられない。

せいぜいシンセサイザーに内蔵されたアルペジエーターを鳴らす、
あるいはリズムマシンを鳴らす程度であって、
70年代末期にすでに世間を席巻していた、そして後に TM NETWORK でも導入される、
『コンピューターのプログラムによってシンセサイザーを自動演奏する手法』には程遠い。
むしろ対極にあるといってもよいほどだ。







では TM NETWORK、ひいては小室哲哉とコンピューターの打ち込みは、
いつ、どうやって結びついたものなのだろう?







ここで2つの発言を見ていただこう。


清水「(最先端のデジタル機器について)結構古くから?」
小室「いやそうでもないです。
   僕は意外とデジタルっていうのは遅れてて、MIDI なんかもね、
   もう結構ずいぶん、もうみんな知って浸透してから使い出して…
(1986年・アルバム「GORILLA」発売時の清水信之との対談より)




さらに1年遡る。




平山「小室君とはね、けっこう前から知り合いで、
   ある意味ではさ、アナログのプレーヤーだったと思うんだよね」
小室「そうですね」
平山「特に最初の頃はね。それがさコンピューターと出会ったのって、いつ頃だったの?」
小室「まだ2年になってないですね。う~ん、2年位かな?
(1985年5月・シングル「ACCIDENT」発売直前の平山雄一によるインタビューより)





いかがだろうか。
1985年5月の時点で2年前位という事は、1983年春から夏ということだ。
つまり小室哲哉は TM NETWORK の結成時に
初めてコンピューターと(音楽的な意味で)出会ったということになる。





断っておくが、この時代のコンピューターは
ミュージシャンが今日初めて触って、明日からすぐに使えるような代物では、
とてもではないが、ない。





ならば、小室哲哉が自分のリーダーグループを作るにあたって、
シンセサイザーはともかく、
コンピューターを活用したグループなどという構想は
どこから生まれてきたのだろう?






さらに同インタビューでの次の発言。


小室「とにかく友達が(コンピューターを)買ってきて…で、なんか、
   (自分は)とてもコンピューターと音楽が結びつくとは思ってなかったから…」
             〜 中略 〜
  「~ あんまりアイディアと結びつかなかったんですよ。
   で、それを聞かせてもらって、いろいろやれるっていうのを。
   どういうことできるの?どういうことできるの?っていうのを
   どんどんどんどんやっていったら…」


この発言は決定的ではないだろうか。
この発言の『友達』というのは 当然、小泉洋のことだ






つまりは、1983年 グループ結成時、
そこに小泉洋がいたから 
TM NETWORK は打ち込みのユニットとしてデビューしたのではなかったか?

もし彼がいなかったら、今ごろ『小室哲哉は、1984年から、EDM。』
なんていうハッタリをかませただろうか?
















































もちろん、派手で新し物好きの小室哲哉のことであるから、
いずれはコンピューターの打ち込み音にのめり込んだとは思われるが、
少なくとも1983年結成当時の構想、及び同年10月からレコーディングが始まった
デビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」は、
あのような音にはならなかった可能性がある。

ひとつの可能性として、木根尚登著「電気じかけの予言者」に
「1974」のデモテープを作る際の手法として書かれている、
リズムマシン + その当時よく行われていた、
手弾きのフレーズをテープの速度を変えることによって機械風にする、
なんちゃってシークエンス などを駆使した、
シンセ多重録音作品となっていたのではないか?





デビュー2年目の1985年までは、小室哲哉本人が、
『実際に打ち込んでいるのは自分ではない』と明言しているし、
TVで機材などを紹介するときも、小室哲哉は鍵盤を弾いているだけ
パネルの操作は横に立った小泉洋が手を伸ばしてスイッチを押すという
二人羽織状態 がみられた。

この時期までは、実際に音を具現化する作業は "小室哲哉と小泉洋の二人三脚” であり、
場合によっては "小泉洋におんぶにだっこ” だったわけだ。




ちなみに1986年以降、小室哲哉自身がコンピューターによる打ち込みを始めるが
これはソフトウェアのバージョンアップにより、手弾き入力が可能になるなど
(技術屋ではなく)ミュージシャンが扱いやすくなったことが大きな要因と思われる。

つまり ”打ち込みなのに全編手弾きで入力する” という、
小室哲哉独特のデーター入力スタイルは、
これ以前には成立しない。












【実は我々は TM NETWORK のことを何も知らないのではないか?】



となると、「TMN Groove Gear」に収録された「Introduction (Any Time)」など
"TMデビュー以前に小室がEpic/Sonyに持ち込んだデモ音源” なる物の、
制作時期や使用機材が気になるところだ。

少なくとも「Introduction (Any Time)」は、
1トラック、かつ単音ではあるが打ち込みの音が鳴っている。
(だからといって全曲、打ち込みが入っていた確証はない)




そもそもデビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」は、
どういう機材を使ってレコーディングされていたのだろうか?
使用シンセサイザーは音を聴くことで、ある程度判断がつくが
打ち込み機材に関しては全く分からない。

セカンドアルバム「CHILDHOOD'S END」のライナーには
使用機材が事細かに書かれているが、
デビューアルバムには、一切書かれていないのだ。




また、先に書いた1985年5月の平山雄一によるインタビューで小室哲哉は、
やらないと言いつつ、初ライブ(1984年6月)をやった動機を聞かれ
「去年のまだ春って言うと、同期物でライブっていうのは、
 世界でまだあったか、なかったかっていう…そういうギネス的な発想で(笑)」
と語っているのだが…
何が世界で初めてなのだろう?

打ち込みとの同期ライブは、
すでに YMO がペンペン草も生えないレベルでやりつくした後である。
もちろん小室哲哉がその事を知らないわけがない。

だとすると、何が世界初なのだろう?




そういえば、デビュー前に作った「1974」のデモテープ。
木根尚登の著書「電気じかけの預言者」では、
小室哲哉が1人で ドラムマシン と KORGのPolysix だけで作った、と書かれているが、
以前こちらにも書いたように、当時から付き合いのあった白田朗氏の回顧録によると
24トラックを駆使した、小泉洋によるバリバリの打ち込みサウンドだったと語っている。

???

ということは、デビュー前に作られたという
「1974」のデモテープは、2種類存在するということなのか?




その他諸々、あんなことこんなこと…
考え始めると際限なく疑問が湧いてくる。










   ☆☆【発表 / 30周年特別企画!!】





ここまでお読みいただけば、ミツカワの感じている
飢餓感 が分かっていただけただろう。

TM NETWORK の創成期 ~ デビュー、
さらに言えば小室哲哉の音楽遍歴を語るときに、
非常に重要な Piece が欠けたままなのだ。


しかし30周年も終わりが見えてきた中、
このメモリアルイヤーを逃してしまえば、
小泉氏の話が聞けるチャンスは二度と訪れないのではないかという、
不安感・焦燥感が日に日に大きくなってきている。


ここまで表に現れないという事は、そこに何かしらの事情があると言う事は推測できる。


だが、特に技術革新の著しい80年代初頭にデビューし、
30年も続いたプロジェクトと考えると、
TM NETWORK という単独のグループにとどまらず、
日本のポップス史、あるいは録音技術史という観点からも、
いわゆる つくられた『ストーリー』ではなく、
その実態を記録しておくべきではないのだろうか?




というわけで、思わず肩に力が入った文章になってしまいましたが、
TM NETWORK 30周年ということでミツカワ、
この件に限り、一線を超える ことを決意しました。







             発表いたします。







この年末年始、重箱Blogでは『TM NETWORK 30周年特別企画』として
ミツカワによる

    『小泉洋氏・対面インタビュー』
     お届けすることになりました!!


ミツカワの知る限り、おそらく史上初の小泉氏の肉声となります。(違ったらごめんね)



前編は年末、帰省ラッシュの頃にエントリー予定!
キーワードは『たこ焼き(?!)』です。


どうぞお楽しみに!!