2013年5月31日金曜日

[番外編] ☆キャンペーン☆ ショルキーと呼ばないで

現在、ポコ太はYAMAHAによる
小室哲哉オリジナルショルダーキーボード
開発の経緯をエントリーとして執筆中です。


今回の内容は、そのエントリーのマエフリ部分だったのですが、
単なるマエフリとするには長過ぎるので
独立したエントリーとさせていただきました。




まず、おことわりしておきますが
今回のエントリーの内容は
『TM NETWORK』とは直接関係ありません


しかし『TM NETWORK』のファン
『Fanks』を自認する方にこそ
是非読んでいただきたい内容であります。






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その昔、ポコ太がインターネットに接続しはじめた頃、
とても気になったのが“ショルダーキーボード”を
“ショルキー”と呼ぶ人が多いことである。



単に『ショルダーキーボード』を略して
『ショルキー』と言っているだけかもしれない。



しかし、やはり80年代を生きた者としては
1987年 YAMAHAから発売され大ヒットした
『SHS-10』通称『SHOLKY』(以下ショルキー)
の印象が強いのではないだろうか。




『ショルキー』とは同社のファミリーモデル『ポータサウンド』の
ショルダーキーボード版といっていいだろう。




あなたの周りにXboxだろうがPlayStationだろうが、
なんでも“ファミコン”と言ってしまう
おばちゃんはいないだろうか?


いや、おばちゃんなら問題は無い。


それだけ“ファミコン”がインパクトのある
偉大なパイオニアだったということだ。






しかし、もしそのおばちゃんが
『私はゲームマニアだ』と言いだしたら、
皆さん、どう思うだろう?






説得力がまるでないと感じないだろうか。





というわけで、
せめて『Fanks』を自認する者であれば
“ショルキー”と“ショルダーキーボード”を
混同しないでほしいのだ。





小室哲哉が使っていたのは
ショルダーキーボードであって、
断じて “ショルキー” ではない!!








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ただ、小室哲哉が全く“ショルキー”を使っていなかった
というわけでもない。


『Kiss Japan Tour』の移動中、新幹線車内にて
ショルキーを使っている写真が存在する。

おそらく後に書くような理由で、
移動中の音確認には最適だったのだろう。


↑この本に載っていたのは間違いないのだが、
どうやら実家に置いてきたようだ。帰省した際にスキャンしてきます。

  (余談だがこの本の中に
  『北海道遠征中、メンバーが「N43」という店にくりだした』
   との記載もあったはず)




また少々あやふやであるが、同ツアーの
「You Can Dance」間奏部のドンチャン騒ぎに
スタッフの1人がショルキーを抱えて参戦していた記憶がある。




さらに強引にTM関連で話を続けると
この製品のプリセット音開発には、
浅倉大介も関わっていたそうだ。





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ところで先程、ファミコンを偉大なパイオニアと評したが
実は“ショルキー”もかなり良くできた製品だったと思うのだ。



見た目の通り、小型軽量のうえ


・音源内蔵
・スピーカー搭載
・電池で動く


というわけでスイッチONですぐ音が出るわけだ。



小室哲哉が『EOS B200』が発売になった頃、
「初心者にとっては一々アンプやスピーカーに繋がなくても
 音が出るっていうのは大きいですよね」と語っていたが、
まさにショルキーは初心者にとっても手の出しやすく
学園祭やストリートライブなどに最適な製品だった。



また、そのデザインもPOPでカラーバリエーションも豊富。
女の子にも親しみやすいものであった。
当時のCMも明らかにそういう層を狙い撃ちしていた。







しかもファミリー向けにもかかわらず
MIDI端子を装備するなど使いようによっては奥深い製品でもあった。




楽器店のシンセサイザーコーナーが
どんどん縮小されている
今こそヤマハは
ショルキーの新製品を開発すべき
だと思います。







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さて今回のエントリーはこれだけなのだが
YAMAHA『SHS-10』通称『SHOLKY』を採り上げた以上、
これだけは言っておかなければならない。






ポコ太にとって “ショルキー” といってまず思い浮かぶのは
『幹てつや』である。


以上!






さて次回は予告通り、
小室哲哉オリジナルショルダーキーボードを採り上げます。



んじゃ、また。








2013年5月21日火曜日

この人を讃えよ 〜 小泉洋編 〜 その3

さてさて、書いてる本人が一番驚いている
怒涛の小泉洋ゴリ押しキャンペーンも今回で一区切り。





このテーマもいよいよ最後。
[ライブ中に『マニピュレーター』は何をしているのか?
 〜 1985年・小泉洋の場合]








最後を飾るのは、前回予告した
・演奏&コーラスに参加
・トラブル時の対処
に、補足事項として
サンプラーのロード時間と一部演出の関係
・曲順変更
を加えお送りする。




なお前回、前々回の内容とも一部関連してくるので
まだお読みでない方はそちらを先に目を通していただきたい。



【関連エントリー】








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サンプラーのロード時間と一部演出の関係





まず小泉洋とは直接関係ないが、
前回のサンプラーのロード時間について、
積み残しがあったのでふれておこう。

前回冒頭でふれた『一部演出』にも影響したという部分だ。




まずこちらを見て欲しい。


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SE     ~ Childhood's End ~

01  Dragon The Festival
02  カリビアーナ・ハイ
03  Rainbow Rainbow
04  8月の長い夜 
05  永遠のパスポート
06  Fantastic Vision
07  Faire La Vise
08  愛をそのままに
09  Time
10  組曲 Vampire Hunter D
11  1974
12  金曜日のライオン
13  QUATRO
14  パノラマジック
15  Accident
16  Electric Prophet

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これはツアー最終日 (注)
1985年10月30日 日本青年館公演でのセットリストである。

  (注) ツアー終了1ヶ月後に山口市民会館にて
    『エフエム山口開局記念』と冠した
    同内容の無料招待コンサートが行われている。






セットリストには書かれていないが
5曲目「永遠のパスポート」と
6曲目「Fantastic Vision」の間に
唐突に1分弱の木根尚登によるアコースティックギターソロが入る。


前曲のエンディング、あるいは次の曲のイントロにつながる
… というわけでも特にない。



ポコ太としては、ここは
かなり怪しいとにらんでいる。



前曲の「永遠のパスポート」では最後をストリングスで〆ており、
「Fantastic Vision」ではイントロからピアノの音色で演奏が始まる。
おそらくこの間、ロード時間を確保する為の時間稼ぎだろう。







ファンの方ならリハ中に ↓ こういう会話があったろうことが余裕で頭に浮かぶのでは?


小泉洋  「ここ、ロード時間が足りないんだけど」
小室哲哉 「じゃあそこ、木根なんかやってよ」
木根尚登 「え?!お、俺?!」







またツアー中盤までは13曲目「QUATRO」の前にも
松本孝弘による、まったく空気を読まない
ヘビメタ全開の Guitar Solo が差し込まれている。
ここもなんらかの時間稼ぎだった可能性がある。






       スポットライトを独り占めにしてギターを弾く木根尚登。
          今、ステージは彼(と小泉洋)のためにある。

































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・演奏&コーラスに参加





小泉洋はマニピュレーターとしての作業をこなしつつ、
手の空いた時には演奏にも参加している。


例えば「Rainbow Rainbow」では
一部、ハンドクラップの様な音を手弾きしており、
この音に合わせて宇都宮隆が手拍子を打つ光景が見られた。


    
参考までに、2008年に発売されたCD
『TM NETWORK THE SINGLES 1 (初回生産限定盤)』のDISC2に収録されている
「Rainbow Rainbow (Live at 日本青年館)」の(5:14〜5:16)で
右奥から聞こえる音がソレだ。
ただ残念ながら、このCDではMixの関係で非常に遠くで鳴っている。





また前回のエントリーで述べたように
「組曲 Vampire Hunter D」は
小室哲哉、小泉洋、白田朗の3人だけで演奏されている。






アイコンタクトをとる宇都宮隆と小泉洋

































もう一つ注目すべきなのがコーラスだ。





TM NETWORK のライブでは
オリジナルテープからサンプリングされたコーラスが随所に流れ(注1)
CDと同じ様なきらびやかさをみせるが、
このツアーではこれまでに述べたように
とてもそんなことが出来る
サンプラーのメモリー容量がない(注2)


そのため小泉洋も含め、
サポートメンバーにもマイクが立てられ
みんなでコーラスをして音の厚みを出そうとしている。






ライブ中忙しい中、多くの場面でコーラスをとる小泉洋の姿が見られた。

他メンバーと共に歌う小泉洋(画像右下)彼も立派なバンドメンバーだ。






























(注1)この部分は「TM NETWORK」と「TMN」のツアーの違いでもある。
(注2)容量不足というのはこの後も数年、悩まされることになる。
    これが解決されるのは1987年後半の
   「Kiss Japan tour」あたりになってからだが
    これについてはまた、いずれ。








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・曲順変更





ライブ中の話ではなく仕込みの話になってしまうのだが
ひとつ、ふれておきたいことがある。





このツアーではたった7カ所(+1カ所)にもかかわらず
途中、広島公演などで2度程、曲順変更が行われた。


・ツアー開始早々に後半頭(「1974」の前)に演奏されていた
「FAIRE LA VISE」が、前半「Fantastic Vision」の後に。

・ラストの盛り上がり曲を
「金曜日のライオン」から「アクシデント」に変更。


などである。








特に「金曜日のライオン」と「アクシデント」の位置は
ツアー全般にわたり安定しない。


ラストの盛り上がり曲は変更の度に
エンディング部分のジャーンというところが
その都度アレンジしなおされている


一部の会場では「金曜日のライオン」のエンディングで
強引に「Dragon The Festival」のイントロが演奏されており、
これはさすがにとってつけた感が否めない。







この辺、舞台演出からの要請があったのだろう。
また最新アルバムの曲で〆たいという部分
(「Dragon The Festival」で始まり「アクシデント」で終わる)
もあるのではないだろうか。


これはツアー途中、本編エンディングが
「GET WILD」から「TIME TO COUNT DOWN」に変更された
「RHYTHM RED TOUR」にも言える。










ということで行われた曲順変更。










通常のバンドなら大して問題は無いのだが、
打ち込みがあるバンドは大変である。



特に一部の会場では
「アクシデント」から「金曜日のライオン」を
ドラムマシンのリズムによってノンストップで繋いでおり、
これを最初にあげたセットリストのように、別々の位置に差し込むのは
ただ『曲データの順番を差し替え』で済む話ではなく、
データの手直しが必要だと思われる。



まして前回述べたような、
音色変更のタイミングまでガチガチに決められたライブなので
曲データを呼び出す順番だけでなく、
『ライブ中の作業工程リスト』全般を
一から見直す必要があっただろう。








本当、マニピュレーターって大変。









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・トラブル時の対処





最後に『Dragon The Festival』tour で起こった
『音に関するトラブル』をいくつかあげておこう。
もちろん「音に関すること」以外にもいろいろあったようだ。
一部はこちらのエントリーでふれているので見てもらいたい。






まず一番多かったのは、やはりシンクロの問題。
ドラマがモニターしているクリックと他の機材のタイミングがずれる。
もしくは 全然同期しなかった



また、こちらのエントリーでとりあげたように
ムービング・トラスの影響で
通常のコンサートよりも更に暑い舞台上だったため
その熱と振動で『Emulator II』の音色ロードがうまくいかない時があった。








そして極めつけはこれ ↓






照明が切り替わると
そのノイズがMIDIコードにのってしまい、
突然、プリセットの音色が変わってしまう














小見出しに『トラブル時の対処』と書いたが
これにどうやって対処したのか、
あるいは対処できなかったのか分からない。




正直、対処のしようなんか無いものもある。






ただ、ポコ太としてはっきり言えるのは、
観客も他の演奏者も普段注目なんか全然してくれないのに
何かトラブル起こったときは全員が
いきなりマニピュレーターの方を見る
のがお約束である(涙)




しかも、この場合のトラブル対処とは、
ただでさえパニクるような状況の中で、
ステージの上でライトを浴びながら衆人監視のもとに行うのである。




はっきりいって演奏者よりも大変だ!






ひとつ声を大にして言っておきたい。
街でマニピュレーターを見かけた時は
皆さん、優しい目で見守っていただきたい。









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と言うわけで今回のエントリーはおしまい。
これにて一連の小泉洋編は一旦、区切らせていただきます。





ところで誰も覚えてないと思いますが、この小泉洋編
『タイムマシンで80年代に来ている』という設定 だったので、
再び、タイムマシンに乗り2013年に戻りましょう。

いやほんと、ポコ太も忘れてたけど…。




んじゃ、また。






2013年5月11日土曜日

この人を讃えよ 〜 小泉洋編 〜 その2


最近、当『重箱』の検索キーワードを眺めていると
「roland dg mpu 401」というキーワードで訪れている方がおり
この2013年に、そのようなキーワードで
検索をする方がいるということに感激いたしました。


ひるがえって「宇都宮、餃子」で来た方、
誠に申し訳ありません。
当ブログでは今のところ餃子を扱う予定はございません
もし路線変更を重ね、餃子専門ブログになった時は、
またよろしくお願いいたします。


というわけで今回以降は無精せずに、
『宇都宮隆』とフルネームで書くようにします。










さて今回のテーマは前回に引き続き
[ライブ中に『マニピュレーター』は何をしているのか?
 〜 1985年・小泉洋の場合]







当時、小室哲哉がインタビューのたびに言っていたので、
結構知られている話だが
『Dragon The Festival tour』の
曲順、アレンジ、一部演出などは
サンプラー『Emulator II』の
音色ロード時間から逆算されて構成されていた


小泉洋の話に入る前に
なぜそれほど「サンプラーありき」だったのか
85年当時の状況にふれておこう。






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時代背景





TM NETWORK のライブでサンプラーというと
おなじみ『ゲゲゲゲゲゲ〜』などの
派手なフレーズサンプリングが頭に浮かぶ。


しかし『Dragon The Festival tour』では
オープニング曲「Dragon The Festival」でしか
フレーズサンプリングは使われていない。

小室哲哉がショルダーキーボードで弾く『Dragon ~』のフレーズサンプルによりライブスタート!
ステージに飛び出していく3人
なにげに木根のスタートポーズが一番かっこいいのはサッカー経験の賜物か?


































では、サンプラーの主目的は何だったかというと
ピアノやストリングス(弦楽器)などの代用であった。


「ん?そんなのは普通のシンセでいいんじゃん?」
と思われる方もいるかもしれない。






80年代、シンセの主流はアナログからデジタルへと
一気に移り変わるのだが、
もう少し細かく見ると、同じデジタルシンセの中でも


・80年代前半
 音を内部的に一から合成して生み出すFM音源などの方式によるシンセ
 (例・YAMAHA DX7=83年発売)

              ↓

・80年代後半
 あらかじめ録音(サンプリング)した波形をもとに加工していく
 PCM音源方式と呼ばれるシンセ(例・KORG M1=88年発売)


主流が移り変わっている






PCM音源は「プリセットサンプラー」などと
揶揄されることもあったが
その言葉どおり、自分でサンプリングしなくても
いろんな波形が「プリセット」として内部収録されていて、
電源をいれただけで、すぐにピアノなどの波形を演奏する事が出来る。



今では当たり前の方式である。




しかし、このPCM音源方式自体は以前から存在していたものの、
それがメモリーなどの価格低下などに伴い、
一般化するのは
80年代後半になってからなのだ。






         ちなみにTMファンおなじみの YAMAHA『EOS』は
    『B200』までがFM音源方式、『B500』からがPCM音源方式となっている。

画像は『Carol Tour』で大活躍の『B200』


















一から合成で音を作る方式はシンセサイザーの王道ではあるのだが、
抽象的な音は得意なのに対し
ピアノやバイオリンなど写実的な音を作るのはなかなか難しい
(かたやPCM方式はあらかじめ用意してある波形から、
 大きく逸脱した音は作りづらい)





その為、1985年の時点では
ピアノ、バイオリンなど
写実的、具体的な音を出すときは
サンプラー専用機を使う必要があった。





そこで1985年後半から鳴り物入りでTMに導入されたのが
E-mu社のサンプラー『Emulator II』であった。

この時期の小室哲哉インタビューやラジオ出演では
まるで90年頃の『シンクラヴィア』のように
さかんに『Emulator II』のことにふれている。

これはメモリーを増強した『EmulaterⅡ+』












しかし、小室哲哉一押しの『Emulator II』も
致命的な欠陥があった。
音色のロードに時間がかかるのである。


当時のインタビューによると、
ディスクを差し替えて新しい音色をロードするのに27~8秒必要としている。


つまり30秒程は全く演奏出来無くなるわけだ。
いくら音色がリアルでも、これではライブで使うことは出来ない。







しかしシンセサウンド目白押しの
ファーストアルバム「RAINBOW RAINBOW」に比べ、
セカンドアルバム「CHILDHOOD'S END」は
アコースティックな楽器の比重がかなり高くなっている。
ライブで再現するには是非とも『Emulator II』が必要だ。





そこで我らが小泉洋の登場である。







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・サンプラーなど、その曲毎に使う音色をロード&調整





このツアーでの小室ブースはキーボードが2台(+KX5)

              上段=YAMAHA DX7
              下段=Oberheim OB-8

































後の小室哲哉のイメージからするとかなり小規模だが、
小室ブースが肥大化していくのは翌年、86年のツアーに
YAMAHAがサポートとしてついて以降になる。






このうち、上段のDX7がMIDIケーブルを介して
小泉洋ブースの『Emulator II』と繋がっている。






最初に述べたように
『Emulator II』の音色チェンジのタイミングは
ライブ全編に渡り、ガチガチに決められており、例えば



小室哲哉がイントロをピアノの音色で弾く。

                ↓

Aメロに入り、小室哲哉の手が上段のDX7から離れた瞬間に
小泉洋が自分のブースの『Emulator II』のディスクを差し替え。
次の音色のロードを始める。

                ↓

この間、小室哲哉は下段のキーボードで演奏を続ける。

                ↓

30秒後、サビに入ると同時に小室哲哉は上段のDX7で
ストリングスの音色を弾き始める。

といったような事を繰り返す訳だ。



この時、小室哲哉はいちいち振り向いて
小泉洋ブースを確認したりはしない。
このことについては
「やっぱり長く一緒にやっているから」
とインタビューで述べている。


  前列より小室ブース、小泉ブース、白田ブース。 小泉ブースだけ右に寄っているのが分かる。
           おそらく小室哲哉の動作を目で把握するためだろう。



































『Emulator II』についてはコレで終わりではない。




なんと音色によっては、初期状態ではDX7からの
ピッチベンドやモジュレーション情報を受け付けないものがあったようで
上記の音色ロード作業を終えた後、小室哲哉が弾き始めるまでの間に
これらの情報を受けるように
小泉洋が音色の設定を弄って変更していた。







また、今回は手弾き用の『Emulator II』にフォーカスしているが
コンピューターのシンクで鳴っている音についても
当時の機材ではMIDIによる『音色の自動切り替え』に対応していない機種も多く
それらの音色切替えも曲毎に小泉洋が手動で行っていたと思われる。



小室哲哉が下の鍵盤を弾いているまさに今、小泉ブースで音色のロードが行われている!










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さてここまで読んで、
「そんな面倒くさいことするんだったら、
 2台用意して交互に使用すればいいじゃん」
と思ったアナタ。






そうしなかった理由は恐らく ↓ コレです。
          前回と同じく「Keyboard magazine」85年6月号よりイシバシ楽器の広告をスキャン。
     『29万円』じゃないですよ、奥様!『298万円』ですよ!!!







手のかかる『Emulator II』ではあったが、小室哲哉の信頼は厚く、
『Dragon The Festival tour』直後のインタビューでは
「ロード時間以外は完璧。次回のツアーからは2台で使いたい」と述べている。
(実際は白田朗のブースに当時の新製品 AKAI『S900』が導入された。
 また87年の頭には『Emulator II』も増量されている)



『Emulator II』はこの後、87年6月の武道館公演〜
10月のシングル「Kiss You」プロモーションあたりまで
TM NETWORKの主戦力のひとつとして使用されることとなる。






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というわけで今回はここまで。



今回はなにやら『小泉洋』より
『Emulator II』が主役の様になってしまったが
実は今回のエントリーには裏テーマがあった。
[なぜ「Your Song」はライブで演奏されなかったのか?]




ここまで読んでくださった方には
お分かりいただけたのではないだろうか?





85年後半に制作された「Your Song」およびアルバム「Twinkle Night」
「吸血鬼ハンターD ― オリジナル・サウンドトラック」は
『Emulator II』の固まりのような作品群であり
今回のエントリーでとりあげた『85年後半の状況』と
『1台のEmulator II』では、とてもライブ演奏など出来ないのだ。
(TVでの演奏は全てカラオケテープ)




なおYour Song」は演奏されていないものの
同じ様なつくりの「組曲 Vampire Hunter D」は演奏されている
これはバンド演奏ではなく小室、小泉、白田による
シンセオーケストラのような形であった。
これが85年後半の限界点だったのだろう。


ちなみにこの時の演奏をはたから見ていた松本孝弘が
この曲をいたく気に入り、後に自身のソロアルバム
「Thousand Wave」(88年)でカバーすることになる。






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さて、ここのところ怒濤のように続いた
謎の小泉洋ゴリ押し企画も次回で一段落。


次回は残りの

・演奏&コーラスに参加
・トラブル時の対処
をとりあげるつもりです。



んじゃ、また。