2013年4月18日木曜日

"PARCOライブ"・音の出所を追え! 後編


(2013.04.25追記)
   今回のエントリーに対しコメント欄より
   "うめ"さんから重要な情報が寄せられました。
   これをもって断定するわけにはいきませんが、
   傾聴に値する意見だと思いますので、
   是非エントリーと共にご覧ください。

   うめさん、情報どうもありがとうございました。








さて今回のテーマも前回に引き続き
[ "PARCOライブ" のバックトラックは
コンピューターではなくテープだったのではないか?]





今回は残された鍵
『1984年のオーヴァーテクノロジー』を取り上げる。

なお今回のエントリーは終止、機材等の名前が飛び交うので
そういうのが苦手な方は飛ばし読みをお勧めします



要は機材的に見ても
アルバム「RAINBOW RAINBOW」路線のサウンドを
1984年12月という時期にライブでやるのは
『無理ゲーじゃね?』
ということが言いたいだけですので。





こういう話が苦にならない、
いや むしろドンと来い!という方は
ポコ太と一緒にタイムマシンに乗り
『early 80's』へと出発しましょう!





ふふふ、あなたも好きねぇ♡






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3)1984年のオーヴァーテクノロジー




時間旅行に先立って
いまいちど "PARCOライブ" の音を確認しておきたい。



前回は "PARCOライブ" の音を
「RAINBOW RAINBOW」路線と表現したが
実際はアルバム「RAINBOW RAINBOW」より
はるかに打ち込み度は高い



原曲では生演奏だった Drum、Bass は
すべて打ち込みに差し替えられ
Saxのソロなどもシンセへと変更されている。


また「イパネマ'84」にいたっては
「1974」ばりのピコピコサウンドにアレンジされているほか
「クロコダイル・ラップ」「1/2の助走」「クリストファー」など
根本的にCD ver.と異なるアレンジがされている曲も多い。



唯一、木根尚登のGuitarと
小室哲哉が弾くCP-80(エレキピアノ)だけが
生楽器ぽい音と言えるだろう。

CP-80を弾く小室哲哉






























そんなわけでポコ太はこの "PARCOライブ" を
制作背景は異なるものの
TM NETWORK版「公的抑圧」(YMO)  として聴いている。




こと、"PARCOライブ" に限って言うと、
『小室哲哉は、1984年から、EDM。』
と言う後付もOK!だと思うゾっ。






ということで
いよいよ80年代初頭に着いたようです。







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ステージにデジタル制御のシークエンサーを持ち込みライブをする
というのは1978年、YMOがすでに行っている(注)

(注)YMOより前に、矢野顕子のライブに
   松武秀樹がMC-8を持ち込んだという話を聞いた覚えがあるものの
   出典が何だったか忘れてしまったポコ…。
   さらにその前の、りりィのコンサートのオープニング曲はテープだったかな?
   …ゴメン。


(2013.04.24追記)
   コメント欄より kohさんから
   " 田中雄二著『電子音楽in JAPAN』」が出典 " との情報をいただきました。
   早速確認したところ、確かに次のような内容が書かれていました。

   1977年12月31日、ニッポン放送『ゆく年くる年』のため
   西武劇場にておこなわれたステージにて
   矢野顕子(Pf)と松武秀樹(MoogⅢ-C & MC-8)の二人だけで
   「第九交響曲合唱」を演奏。

   松武氏曰く
   「これはMC-8が人前で使われた、最初のケースだと思うんですよ」とのこと。

   kohさんどうもありがとうございました。







TM NETWORKがデビューする1984年春までの5年程の間に
数々の新機材やノウハウが蓄積されていた。





しかしYMOとTM NETWORKの間には大きな断絶がある。






それは82年に選定され
83年に対応商品が発売になるMIDI規格だ。


MIDI(ミディー)がどういったものか
詳しくはこちらを見ていただくとして
簡単に言うと楽器メーカーの枠を超え、
全ての電子機器を1本のケーブルでつないで
同期(シンク)させることの出来る規格だ。


MIDI規格発足以前はそれぞれの会社が
独自の規格と独自のケーブルを乱発している状況だった。

『PROPHET-600』のMIDI端子
























MIDI規格に対応した商品第一群として83年に発売された
『PROPHET-600』や『DX7』などは
初期TMのレコーディング、ライブとも多用されている。





1984年にデビューしたTM NETWORKは
『MIDIの申し子』のようなイメージがあるが、
時代はそう簡単に移り変わりはしない





1983年から85年頃まではMIDI規格の混乱期でもあった。





例えば
・ユニバーサルな規格のはずなのに、
 同じメーカー同士でないとまともにシンクしない。
・シンクの精度が悪く、ズレが生じる。(シンクの意味ねー!)
・そもそも上位機種のみにしか端子が装備されず、対応機種が少ない。
などなど。


まるでPCにおける初期の『USB』のような状況だったわけだ。





また、初期DX7では鍵盤をどれだけ強く押しても
ヴェロシティ(音の強さ)が100まで(本来の最大値は127)しか
出せないという問題があった(注)など、問題は山積しており
今のようにAの機材とBの機材をつないだら
ボタン一つでぴったりシンクとはいかず、
なかなかストレスフルな状況だったわけだ。


(注)これは開発の先行していたピアノ鍵盤の機種
   DX1(発売はDX7の方が先)のヴェロシティ感度を
   そのまま移植したためらしい。






TMのデビューストーリーを綴った
木根尚登による「電気じかけの予言者たち」では
1983年10月終わりから始まった
デビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングで
たびたびシンクが動かない事態が起き
小泉洋が円形脱毛症になったというエピソードが語られている。






しかしそれでも『MIDI』自体はすばらしい規格であり
多くのミュージシャンやエンジニア、プログラマーなどが
その荒波に飛び込み格闘していた。





ただ、レコーディングでは
ひとつひとつシンクさせながら録音していく
『多重録音』という方法がつかえるが、
ライブではそうはいかない。


全てが "同時" に "完璧なタイミング" で
シンクしないといけないのだ。





実際にコンピューターによるシンクが動いた
同年6〜7月のデビューコンサートでは
本番で暴走したり、
スタートボタンの押し間違い等があった。

また、以前のエントリー (小ネタ No.01-2) で触れたとおり
ドラムを打ち込みで行おうとして
結局、断念したという可能性
(おそらく技術的な理由だろう)もある。





このような時期(日進月歩だったので「時代」というより「時期」)に
アルバムよりはるかに打ち込み度の高い音を
後々記録として残る
ビデオシューティングの企画としてやるだろうか?









今回、この "PARCOライブ" について
ポコ太が言いたいことはここまでなのだが
せっかく1984年に来たので
小泉洋の使用機材を覗いてみよう!







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小泉洋の使用機材




では "PARCOライブ" 当時の具体的な使用機材を見てみよう。
小泉洋はコンピューターとMIDI機器を
どうシンクさせていたのだろうか?



1983年(資料によっては1984年となっている)
ローランドより元祖MIDIインターフェイスといえる
『MPU-401』が発売された。



この『MPU-401』と各種コンピューターの組み合わせが
80年代、ひとつのスタンダードとなった。
どれくらいスタンダードになったかというと
けっこう最近まで
Windowsのコントロールパネルにその名を残していたほどだ。

Windowsユーザーの方は見たことがあるのでは?



















当時の小泉洋も
『PC-8801mkⅡ』+『MPU-401』
の組み合わせで使っていたようだ。








では使用ソフトは何だったのだろう?



TMファンお馴染みのカモンミュージック社の
『レコンポーザ』(発売当初の名称はRCP-PC98)は85年の秋発売である。
小室哲哉が『PC-9801UⅡ』と『レコンポーザ』のセットで
レコーディングを始めるのはアルバム「GORILLA」からだ。


80年代、TM NETWORKの象徴だった『レコンポーザ』





























小泉洋のインタビュー自体、ポコ太は見たことないので、
小室哲哉のインタビューを探していると、
「Dragon The Festival tour」の取材記事で
次のように語っているのを見つけた。


「ローランドDGのソフトはかなりいろいろなことが出来る。
 まだまだ使えきれていない凄いソフト」






ここで言う『ローランドDG』というのは
ソフト名ではなく会社名だ。
先の小泉洋の使用機材を考えると
おそらく『MPU-401』付属のソフトウェアのことを指していると思われる。


『MPU-401』は "ローランド" のロゴと、
その子会社 "ローランドDG" のロゴが入った、2種類が存在した。

"ローランドDG" のロゴが入った『MPU-401』























ちなみに『MPU-401』付属のシーケンスソフトと、
その後発売される『レコンポーザ』は、
ユーザーインタフェースやコマンド等がよく似ていたため、
『MPU-401』ユーザーは移行しやすかったようだ。


その後、小室哲哉が『レコンポーザ』に移行して
すぐにレコーディングに使い始めたのも
この下地があったからと思われる。










というわけで今回はここまで。



次回は、せっかく80年代に来たのでさらに寄り道
『小泉洋のおしごと・LIVE編』と題して
「Dragon The Festival tour」での
彼の役割をまとめてみる予定だ。



んじゃ、また。







4 件のコメント:

  1. いつも楽しく拝見させていただいています。
    MC-8を最初にLIVEステージに導入したのは矢野顕子さん、の出典は田中雄二著『電子音楽in JAPAN』と記憶しています。
    いま手元に本が無いため、確認が取れず申し訳ありません。

    またYMOでテープによるLIVEということであれば、散開ライブも含まれるのではないでしょうか?

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  2. kohさん、どうもありがとうございます。
    そうか!『電子音楽 in JAPAN』だったか!
    全然違う雑誌類ばかり探していました。

    僕の持っている『電子音楽~』は
    旧版の黄色い表紙のやつなんですが確認してみます。
    確認取れ次第、記事に追記させて頂きますね。
    ほんとに助かります。



    散開ライブの件、実は書きかけて消したんですよ。
    何故かというと、今頃になって気付いたんです。
    僕は「テープを使った理由」を知らない!ってことを(笑)

    たしか、教授の作ったバックトラックには
    DX7も使われていたと思うんですが、
    それがイコール、記事中で書いたような
    「MIDI時代の幕開けに伴う混乱」と関係あるのか?

    それともただ、あの御三方の中で
    YMOに対する熱量が失なわれただけなのか?

    それが分からないと、
    単なるコジツケになっちゃうかなと思って消したんです。


    ただ非常に興味ある問題ではあります。
    kohさんは、理由を御存知ですか?

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  3. 初めまして、こんにちは。youtubeから飛んできました。
    数年前、ブログに記載されているパルコライブの音源テープを某オークションサイトで購入しました。
    その際、出品者に質問した所、当時の機材状況では演奏する事ができず、ライブはテープ音源と重ねて演奏していたとの回答でした。
    その方がどういう立場の人で何故その事を知っていたのかまではわかりませんがね。
    まあ、それでもパルコライブが1番好きなんですけどね。

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    1. うめさん、はじめまして。
      貴重な情報ありがとうございます。

      うわー、本当にドンピシャな情報ですね!!
      おっしゃる通り、相手の方の素性が分からない限り、
      鵜呑みにするわけにはいかないのでしょうけど、
      ここまでストライクの情報だと信じたくなります。

      正直、たいした根拠も無く
      ネット上に書き連ねることに迷いもあったんですが
      長年の妄想を文章化して良かったと思います。
      インターネット万歳!

      近々、記事に追記させて頂きたく存じます。


      ところで僕もパルコライブの評価が年々上昇してきています。
      元々は生バンドの音が大好きなので
      「ドラムが打ち込みなのはどうもなぁ」と思ってたんですけど、
      歳をとるにしたがって打ち込みバリバリの音が気持よく聞こえてくる様になりました。
      普通、逆だろとは思ってるんですけどね。

      このたびは本当にありがとうございました。
      これからもよろしくお願いします。

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