2013年4月27日土曜日

この人を讃えよ 〜 小泉洋編 〜 その1


とりあげる題材が『小泉洋』という時点で
今回も機材関連の話が中心です。
一応ですが、機材関連に興味が無い方にも
分かりやすい説明を心がけたつもりですので、
チャレンジしてみてください。






さて今回の本題に入る前に、みなさんにひとつ質問です。
『ギタリスト』って何する人か分かりますか?



そう『ギタリスト』は『ギターを弾く人』です。



ドラマーはドラムを叩く人。
ピアニストはピアノを弾く人。










では『マニピュレーター』って何をする人?


         ↑


これ、結構多くの人が分かっているようで
実は分からないんじゃないでしょうか?





ポコ太も分かりません(断言)


というわけで今回は終了!!
んじゃ、また。











って、オイ!




いや、正直言って『マニピュレーター』の仕事って
現場によって求められる範囲が様々なので
なかなか「こうだっ」と説明しづらいんですよね。



たとえば普通のバンド主体のレコーディングと
TMの様なシンセの打ち込みが大きな比重を占めるユニットでは
当然『マニピュレーター』に
求められる範囲は変わってくるわけです。






というわけで、なかなか一言で説明しづらい
『マニピュレーター』ですが
今回とりあげるテーマはさらに分かりづらい

[ライブ中に『マニピュレーター』は何をしているのか?

 〜 1985年・小泉洋の場合]







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ライブDVDなどを見ていても、まずほとんど
『マニピュレーター』ブースが大写しになることはない。



終了ライブを収録したDVD
「TMN final live LAST GROOVE 5.18」
「TMN final live LAST GROOVE 5.19」でも
久保コージのブースはほとんど映らない。


舞台上にそんなブースがあったことすら
気付いていない人もいるのではないだろうか?




そこで今回は、
当時の取材記事・インタビュー・ライブ中の画像・映像などに
前回のエントリーで述べた『当時の機材状況』を加味して
1985年秋に行われたTM NETWORK初の全国ツアー
『Dragon The Festival tour』における
小泉洋の『ライブ中』の役割を探ってみよう。







まずはとりあえず、最低限の仕事を箇条書きしてみた。


・曲データーの呼び出し&スタート
・サンプラーなど、その曲毎に使う音色をロード&調整
・演奏&コーラスに参加


これに不確定要素として
・トラブル時の対処
が加わる。






ひとつひとつを見るまえに、このツアーに於ける
『マニピュレーターにかかる比重』を見てみよう。






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まず、大前提としてTMのライブでは
1987年6月の武道館あたりまで
打ち込みの入らない
完全に生演奏の曲は意外と多い


技術的な問題やトラブル対策として
打ち込みの入った曲を2曲演奏したら、
完全に生演奏の曲を1曲挟む、というような形式である。



たとえば、その武道館公演を収録したDVD
「FANKS the LIVE 1 FANKS CRY-MAX」
に収録された8曲のなかでも
「Ipanema '87」「Electric Prophet」「Dragon The Festival」
の3曲は完全生演奏だ。

※ちなみに「Ipanema『'87』」というのは誤記ではなく武道館公演での正式名称。































『TM NETWORK』のイメージ通りの
『完全打ち込み・シークエンスショー』と呼べるのは
『CAROL tour』あたりになってからやっとだ。

(その次のツアーが生演奏主体の『RHYTHM RED TOUR』
 というところがなんともTMらしい)






実は1986年暮れに行われたYAMAHAのイベント
『X-DAY』のステージではコンピューターではなく
YAMAHAのシークエンサー専用機『QX1』のチェイン機能
(あらかじめ設定した曲順を次々と自動的に呼び出しスタートさせる機能)
を使った『実験』が行われていた。

                      YAMAHA『X-DAY』東京公演
























しかしその結果、
トラブルが起きた時のリカバー等を考えると時期尚早と判断
1987年のツアーでは小室哲哉自身が手動で『QX1』から
1曲毎にデーターを呼び出す形式にしたそうだ。






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では今回の主役
「Dragon The Festival tour」はどうだったのだろう?



「Dragon The Festival tour」は
TM NETWORK 3人 + サポートメンバー 5人 = 8人
という大編成で行われ
打ち込みは最小限に抑えられた


Drum、Bass をそれぞれ人間が演奏することにより、
もし最悪、コンピューターが止まった場合でも
曲としての形を保てるようにしてあるのだ。



逆に言うとそれだけコンピューターに対し
不安があったということだ。

前回述べた時代背景や、単発のコンサートではなく
全国ツアーということを考えると妥当な判断だろう。






そのため全体における打ち込みの割合は
"PARCOライブ" に比べ、かなり少ない

実は「Rainbow Rainbow」「1974」など、
ほぼ同じアレンジの曲も多いのだが、
人間が弾くことで、受ける印象はかなり違う




また、単に生演奏というだけでなく
「ACCIDENT」Aメロのコードバッキングは白田朗による手弾き、
「FAIRE LA VISE」CD ver.で聞けるバスドラムの16分音符連打(1:44〜 など)は
山田亘がドラムパッドを使い、器用に打ち込みの雰囲気を再現している。


「ACCIDENT」のコードバッキングを "打ち込みっぽく" 弾く -The Man Machine- 白田朗






























では『マニピュレーターにかかる比重』は少ないのか
というと、そうでもないのだ。

むしろ当時の状況下では『マニピュレーター』がフル回転して出来る
最大限の事をやっている





どういうことか?
前置きが長くなったが
いよいよ、ひとつひとつ具体的に見てみよう。







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・曲データーの呼び出し&スタート




これは説明の必要はないだろう。
誰にでも出来る簡単なお仕事です。






と、思ったら大間違い!
たったコレだけの事でも、なかなか大変なのだ。





当然、まずはコンピューターに曲のデーターを呼び出す。
しかし、そのままコンピューターの
 [play] ボタンを押してスタート、というわけにはいかないのだ。





シンクさせる全ての機材に『基準となるテンポ』を送りだす
シンクロナイザーという機材がある。
指揮者のような存在だと思えばよいだろう。


「Dragon The Festival tour」では
シンクロナイザーのスタンダード、ローランド『SBX-80』が使われたのだが、
この『SBX-80』だけではうまくシンクしない機材があった為、
サブとしてコルグ『KMS-30』というシンクロナイザーも
同時に使われている。

「Keyboard magazine」85年6月号よりイシバシ楽器の広告をスキャン。
あおり文句の"ほとんどの”というところがミソです。






























接続順序としては『SBX-80』が親となり
その下に『KMS-30』と『コンピューター』がぶら下がる。


その結果、曲のスタート方法も煩雑になり


まず『SBX-80』と『KMS-30』のテンポをあわせる。

          ↓

次に、コンピューターの [play] ボタンを押す。(この時点ではスタートしない)

          ↓

最後に親となっている『SBX-80』をスタートさせる。



これを曲毎に行うわけだ。







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さらに スタートボタンを押す『タイミング』にも気を使う。




打ち込みと生ドラムが共存するライブの場合、
ドラマーに『クリック』を送らなくてはならない。
『クリック』とは曲のテンポを伝える
メトロノームのようなもの


TMのライブでドラマーがヘッドフォンをしているのは、
この『クリック』を聞くためである。


ヘッドフォンから聞こえるクリックに合わせDrumを叩く山田亘





























『クリック』のテンポに合わせてドラマーが演奏し、
そのドラムを聞きながら他の奏者が演奏することにより、
『コンピューター』の演奏と人間の演奏がぴったり合うのだ。





ちなみに「Dragon The Festival tour」ではクリックの音源としてE-muの『Drumulator』が使われていた。








































ドラマーが曲のテンポを掴むためには
まず2小節程度、クリックのみを聞いて予習してもらう必要がある

ドラマーのヘッドフォンにのみ
『コン・コン・コン・コン 〜』とクリックが聞こえ
そのテンポに合わせドラマーが他のメンバーに
『ワン・ツー・スー・フォー』と合図し
初めて曲がジャ〜ンと始まるわけだ。





ここで問題が起こる。





最初の『コン・コン 〜』の予習期間は、
他のメンバーや観客には何も聞こえない『無音』の為
『マニピュレーター』がスタートボタンを押す『タイミング』を間違えると
妙な間が生まれてしまい、
せっかく盛り上がった場がシラケてしまう。





かといって、あまり早くスタートさせてしまうと、
例えば mc でボーカルが 喋り終る前に曲が始まってしまう。








ただスタートさせるだけでも、なかなかに神経を使うのだ。


先程述べたように、
全ての曲で打ち込みが使われているわけではないので、
ライブ中、ずっとこの作業が続くわけではないのだが、
それでも小泉洋に全てがかかる瞬間は少なくない。









さて、無事に曲がスタートした後も
小泉洋は休むことができない。

むしろここからが
「Dragon The Festival tour」の主戦場だ。








というところで、今回はおしまい。
次回も小泉洋先生の活躍に御期待下さい!



んじゃ、また。








2013年4月18日木曜日

"PARCOライブ"・音の出所を追え! 後編


(2013.04.25追記)
   今回のエントリーに対しコメント欄より
   "うめ"さんから重要な情報が寄せられました。
   これをもって断定するわけにはいきませんが、
   傾聴に値する意見だと思いますので、
   是非エントリーと共にご覧ください。

   うめさん、情報どうもありがとうございました。








さて今回のテーマも前回に引き続き
[ "PARCOライブ" のバックトラックは
コンピューターではなくテープだったのではないか?]





今回は残された鍵
『1984年のオーヴァーテクノロジー』を取り上げる。

なお今回のエントリーは終止、機材等の名前が飛び交うので
そういうのが苦手な方は飛ばし読みをお勧めします



要は機材的に見ても
アルバム「RAINBOW RAINBOW」路線のサウンドを
1984年12月という時期にライブでやるのは
『無理ゲーじゃね?』
ということが言いたいだけですので。





こういう話が苦にならない、
いや むしろドンと来い!という方は
ポコ太と一緒にタイムマシンに乗り
『early 80's』へと出発しましょう!





ふふふ、あなたも好きねぇ♡






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3)1984年のオーヴァーテクノロジー




時間旅行に先立って
いまいちど "PARCOライブ" の音を確認しておきたい。



前回は "PARCOライブ" の音を
「RAINBOW RAINBOW」路線と表現したが
実際はアルバム「RAINBOW RAINBOW」より
はるかに打ち込み度は高い



原曲では生演奏だった Drum、Bass は
すべて打ち込みに差し替えられ
Saxのソロなどもシンセへと変更されている。


また「イパネマ'84」にいたっては
「1974」ばりのピコピコサウンドにアレンジされているほか
「クロコダイル・ラップ」「1/2の助走」「クリストファー」など
根本的にCD ver.と異なるアレンジがされている曲も多い。



唯一、木根尚登のGuitarと
小室哲哉が弾くCP-80(エレキピアノ)だけが
生楽器ぽい音と言えるだろう。

CP-80を弾く小室哲哉






























そんなわけでポコ太はこの "PARCOライブ" を
制作背景は異なるものの
TM NETWORK版「公的抑圧」(YMO)  として聴いている。




こと、"PARCOライブ" に限って言うと、
『小室哲哉は、1984年から、EDM。』
と言う後付もOK!だと思うゾっ。






ということで
いよいよ80年代初頭に着いたようです。







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ステージにデジタル制御のシークエンサーを持ち込みライブをする
というのは1978年、YMOがすでに行っている(注)

(注)YMOより前に、矢野顕子のライブに
   松武秀樹がMC-8を持ち込んだという話を聞いた覚えがあるものの
   出典が何だったか忘れてしまったポコ…。
   さらにその前の、りりィのコンサートのオープニング曲はテープだったかな?
   …ゴメン。


(2013.04.24追記)
   コメント欄より kohさんから
   " 田中雄二著『電子音楽in JAPAN』」が出典 " との情報をいただきました。
   早速確認したところ、確かに次のような内容が書かれていました。

   1977年12月31日、ニッポン放送『ゆく年くる年』のため
   西武劇場にておこなわれたステージにて
   矢野顕子(Pf)と松武秀樹(MoogⅢ-C & MC-8)の二人だけで
   「第九交響曲合唱」を演奏。

   松武氏曰く
   「これはMC-8が人前で使われた、最初のケースだと思うんですよ」とのこと。

   kohさんどうもありがとうございました。







TM NETWORKがデビューする1984年春までの5年程の間に
数々の新機材やノウハウが蓄積されていた。





しかしYMOとTM NETWORKの間には大きな断絶がある。






それは82年に選定され
83年に対応商品が発売になるMIDI規格だ。


MIDI(ミディー)がどういったものか
詳しくはこちらを見ていただくとして
簡単に言うと楽器メーカーの枠を超え、
全ての電子機器を1本のケーブルでつないで
同期(シンク)させることの出来る規格だ。


MIDI規格発足以前はそれぞれの会社が
独自の規格と独自のケーブルを乱発している状況だった。

『PROPHET-600』のMIDI端子
























MIDI規格に対応した商品第一群として83年に発売された
『PROPHET-600』や『DX7』などは
初期TMのレコーディング、ライブとも多用されている。





1984年にデビューしたTM NETWORKは
『MIDIの申し子』のようなイメージがあるが、
時代はそう簡単に移り変わりはしない





1983年から85年頃まではMIDI規格の混乱期でもあった。





例えば
・ユニバーサルな規格のはずなのに、
 同じメーカー同士でないとまともにシンクしない。
・シンクの精度が悪く、ズレが生じる。(シンクの意味ねー!)
・そもそも上位機種のみにしか端子が装備されず、対応機種が少ない。
などなど。


まるでPCにおける初期の『USB』のような状況だったわけだ。





また、初期DX7では鍵盤をどれだけ強く押しても
ヴェロシティ(音の強さ)が100まで(本来の最大値は127)しか
出せないという問題があった(注)など、問題は山積しており
今のようにAの機材とBの機材をつないだら
ボタン一つでぴったりシンクとはいかず、
なかなかストレスフルな状況だったわけだ。


(注)これは開発の先行していたピアノ鍵盤の機種
   DX1(発売はDX7の方が先)のヴェロシティ感度を
   そのまま移植したためらしい。






TMのデビューストーリーを綴った
木根尚登による「電気じかけの予言者たち」では
1983年10月終わりから始まった
デビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングで
たびたびシンクが動かない事態が起き
小泉洋が円形脱毛症になったというエピソードが語られている。






しかしそれでも『MIDI』自体はすばらしい規格であり
多くのミュージシャンやエンジニア、プログラマーなどが
その荒波に飛び込み格闘していた。





ただ、レコーディングでは
ひとつひとつシンクさせながら録音していく
『多重録音』という方法がつかえるが、
ライブではそうはいかない。


全てが "同時" に "完璧なタイミング" で
シンクしないといけないのだ。





実際にコンピューターによるシンクが動いた
同年6〜7月のデビューコンサートでは
本番で暴走したり、
スタートボタンの押し間違い等があった。

また、以前のエントリー (小ネタ No.01-2) で触れたとおり
ドラムを打ち込みで行おうとして
結局、断念したという可能性
(おそらく技術的な理由だろう)もある。





このような時期(日進月歩だったので「時代」というより「時期」)に
アルバムよりはるかに打ち込み度の高い音を
後々記録として残る
ビデオシューティングの企画としてやるだろうか?









今回、この "PARCOライブ" について
ポコ太が言いたいことはここまでなのだが
せっかく1984年に来たので
小泉洋の使用機材を覗いてみよう!







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小泉洋の使用機材




では "PARCOライブ" 当時の具体的な使用機材を見てみよう。
小泉洋はコンピューターとMIDI機器を
どうシンクさせていたのだろうか?



1983年(資料によっては1984年となっている)
ローランドより元祖MIDIインターフェイスといえる
『MPU-401』が発売された。



この『MPU-401』と各種コンピューターの組み合わせが
80年代、ひとつのスタンダードとなった。
どれくらいスタンダードになったかというと
けっこう最近まで
Windowsのコントロールパネルにその名を残していたほどだ。

Windowsユーザーの方は見たことがあるのでは?



















当時の小泉洋も
『PC-8801mkⅡ』+『MPU-401』
の組み合わせで使っていたようだ。








では使用ソフトは何だったのだろう?



TMファンお馴染みのカモンミュージック社の
『レコンポーザ』(発売当初の名称はRCP-PC98)は85年の秋発売である。
小室哲哉が『PC-9801UⅡ』と『レコンポーザ』のセットで
レコーディングを始めるのはアルバム「GORILLA」からだ。


80年代、TM NETWORKの象徴だった『レコンポーザ』





























小泉洋のインタビュー自体、ポコ太は見たことないので、
小室哲哉のインタビューを探していると、
「Dragon The Festival tour」の取材記事で
次のように語っているのを見つけた。


「ローランドDGのソフトはかなりいろいろなことが出来る。
 まだまだ使えきれていない凄いソフト」






ここで言う『ローランドDG』というのは
ソフト名ではなく会社名だ。
先の小泉洋の使用機材を考えると
おそらく『MPU-401』付属のソフトウェアのことを指していると思われる。


『MPU-401』は "ローランド" のロゴと、
その子会社 "ローランドDG" のロゴが入った、2種類が存在した。

"ローランドDG" のロゴが入った『MPU-401』























ちなみに『MPU-401』付属のシーケンスソフトと、
その後発売される『レコンポーザ』は、
ユーザーインタフェースやコマンド等がよく似ていたため、
『MPU-401』ユーザーは移行しやすかったようだ。


その後、小室哲哉が『レコンポーザ』に移行して
すぐにレコーディングに使い始めたのも
この下地があったからと思われる。










というわけで今回はここまで。



次回は、せっかく80年代に来たのでさらに寄り道
『小泉洋のおしごと・LIVE編』と題して
「Dragon The Festival tour」での
彼の役割をまとめてみる予定だ。



んじゃ、また。







2013年4月8日月曜日

"PARCOライブ"・音の出所を追え! 前編



(2013.04.25追記)
   今回のエントリーに対し後編のコメント欄より
   "うめ"さんから重要な情報が寄せられました。
   これをもって断定するわけにはいきませんが、
   傾聴に値する意見だと思いますので、
   是非エントリーと共にご覧ください。

   うめさん、情報どうもありがとうございました。






さて今回は久しぶりにポコ太の大妄言が炸裂する。





テーマは
[ "PARCOライブ" のバックトラックは
コンピューターではなくテープだったのではないか?]





ここで言う "PARCOライブ" とは
1984年12月5日に渋谷PARCOにて行われた
『Electric Prophet』と題されたライブ。
当ブログでは曲名の「Electric Prophet」と区別するため "PARCOライブ" と呼ぶ。





鍵は3つ


(1)ライブ・デモテープの存在
(2)神出鬼没! 小泉洋
(3)1984年のオーヴァーテクノロジー


今回は前編ということで(1)と(2)をとりあげる。








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まず、"PARCOライブ" について
本エントリーに関係する範囲で簡単にまとめてみよう。

"PARCOライブ" を収録した DVD「VISION FESTIVAL」より。
ライブ部分だけならポコ太が一番好きなDVDだ。































後に『公式のデビューコンサート』とされる "PARCOライブ" だが
名目上は『ライブ』ではなく
『ビデオシューティング』として企画された。
これはセットやレーザー光線の演出などの予算を捻出するための知恵だ。




そのため同日中に同じ内容を2公演行っている。

1回目は客を入れず純粋な『ビデオ撮影』
2回目は客を入れた状態の『ライブ』


前述の企画上、これは
どちらかがリハーサル、どちらかが本番
というわけではなくどちらも本番だ。




また、今回のテーマにある『テープ』とは
俗に『マイナスワン』などと呼ばれるもので
TVやイベント出演時に使う、
歌やメンバーが生演奏する部分のみを省いたテープ。


今回は出演者が4人(TM+小泉洋)なので
『マイナスフォー』ということになる。






では1つ目の鍵から見ていこう。





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1)ライブ・デモテープの存在



今回の公演にあたりTM NETWORKは
『ライブ全編』のデモテープを制作している。


その後現在に至るまで、1曲単位ではなく、ライブ全編
しかもボーカルや手弾きのシンセソロまで
完璧に収録したデモテープというのは前代未聞だ。

(なお「17 to19」全編と「Electric Prophet」の一部分
 ボーカルが録音されておらず、
 この時点で製作途中だったことがうかがえる)



歌や生演奏のギターなどの他は
DVD「VISION FESTIVAL」とまったくと言っていいほど同じ。
完璧に作り込まれ、既に『完成』している
『デモテープ』とは言ったが、相当な手間がかかっている。



これは『ビデオシューティング』と言う企画の性格上、
企画会議の叩き台として、
まず音を確定させる必要があったからであろう。


このデモテープを元に
演出プランやコンテなどが練られたと思われる。





また公演当日の渋谷パルコの楽屋は
カメラなどシューティング用の機材で埋め尽くされ、
メンバーは近くのホテル
しかも4人でシングルの部屋1つに待機という状態だった。


メンバーの楽屋入りは午前4時!
ちなみに客を入れた『ライブ』が始まったのは午後7時30分だった。




いかがだろう?
我々ファンの印象よりも、かなり
『ビデオシューティング』に重きが置かれていた
ことがわかるだろう。

そういう意味では DVD「VISION FESTIVAL」は
ライブビデオというより
DVD「Self Control and the Scenes from "the Shooting"」
に近いのかもしれない。





また音に関しても、この時点で既にセカンドアルバム
「CHILDHOOD'S END」の構想に入っていた(注)はずだが、
ここではデビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」の音に立ち返っている

(注)公式データでは1984年12月10日レコーディングスタートだが、
   『すでにレコーディングに入っていたのを、
   この "PARCOライブ" のため1ヶ月ほど中断した』
   と答えているインタビューがある。
   
   また、セカンドアルバムの制作過程には、
   かなり紆余曲折があったようだが
   『ヒューマンなもの』『生音の多用』というコンセプト自体は
   すでに1984年の終わりから繰り返し述べていた。








通常のレコーディング並みのデモテープの制作に始まり、
大掛かりな本番当日の様子を知ると
この "PARCOライブ" が
『ビデオシューティング』と言う企画をこえ
『TM NETWORK 1984年の総決算・総力戦』
だったことがうかがえる。



おなじみ、木根尚登のギターがうなる!(イメージです)










































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2)神出鬼没! 小泉洋



仮に『コンピューターによるシンクが動いていた』としてみよう。



この時期のライブでは
コンピューター関連は小泉洋が一手に握り、
小室哲哉は演奏に専念している。



使用機材としては
6月のデビューコンサート 〜 翌年の「Dragon The Festival tour」まで
小泉洋の NEC『PC-8801mkⅡ』が使われていた。

ちなみに小泉洋はこの『PC-8801mkⅡ』を
『ハリー』と名付け、ずいぶん可愛がっていたらしい。

"PARCOライブ" の映像にもPCのモニターが写っているで、
これを使ったと考えるのが自然だろう。



小室哲哉側の機材を見ても手弾き用の機材だけで、
シンク用の音源は一切置いていない。

つまり小泉洋の役割は非常に重要ということになる。










しかしだ。





DVD「VISION FESTIVAL」などの映像を見てもらうと分かるが、
なんと小泉洋ブースが空になっていることがあるのだ!





もちろん客入り後のライブ映像では
小泉洋は必ず存在している。
問題は客を入れる前に行われた『ビデオ撮影』の方だ。


今回はDVD「VISION FESTIVAL」収録の
「Rainbow Rainbow」を例にとって検証動画を作ってみた。
検証動画の問題箇所は、すべて客を入れる前に行われたシーンだ。






どうだろう。
カットごとに小泉洋が出たり消えたりまさに神出鬼没だ。
(それだけきめ細かな編集がされているともいえる)







"PARCOライブ" のサウンドは先に述べたように
デビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」路線の
ピコピコした打ち込みの固まりだ。
おまけに Drum や Bass まで
人ではなくコンピューターにまかせてしまっている。

少しでも機材トラブルが起こると
全てがストップしてしまう状況だ



そんな状況の中、キーマンである
小泉洋が職場放棄するわけにはいかない。





1回目の『ビデオ撮影』はテープで
2回目の『ライブ』はコンピューターが動いた
という可能性もなくはないが、やはり考えにくいだろう。

これだけ重要なイベントで客を入れて、
ぶっつけ本番というのはあまりにも危険すぎる。

やはりテープならテープ、
コンピューターならコンピューターと
同内容で行うのが常道だろう。




となるとやはり動画のように打ち込みの全てを握る
小泉洋がいない状態で行われるというのは考えにくい。



『メンバーだけの画がほしい』という
撮影上の意図があったとしても、
では小泉洋はスタートボタンだけ押して
舞台袖に離れたのだろうか?












というわけで今回はここまで。


次回は、残された鍵
『1984年のオーヴァーテクノロジー』と題し
機材的な面から1984年12月という時代が
どういった状況だったのかを見てみようと思う。



んじゃ、また。